うむ。
つまりは、差別語自体を使ったからといって差別となるわけではない、ごくごく単純なものということだ。
「低能」という事実(個人的にでこそのものだが)を、素直に表明する事自体は、なんら問題ではない。
問題なのは、自己の経験、感想から過剰な汎化を進めて木を森のように扱うことだ。
君が出会ってきた黒人がみな高い知性を備えていたという事実から、「黒人はみな有能だ」と導きだすのは、愚かしいだろ?
もっとも、無差別に人類みな有能なのだから、黒人も例外なく有能だ、という立場なら、それもまた真なのかもしれんが。
差別というのは、言ってしまえばそういう過剰に一般化させたものを、また個々にそれを押し付けること、という風に言えるだろう。
たとえば、東大生に一人しか会ったこともないのに、その一人に「東大行ったんならこれぐらいできるでしょ?」とか「東大生のくせにこんなこともできないの?」とかいうのは、そいつの勝手に創り上げた「東大生」というイメージを押し付けているわけで、差別に当たると思う。
ただし、その一人を根拠に、「俺が会った東大生はひどくバカだったよ。」という感想なりを主張するのは、差別にはあたらない。
逆もしかり。偏差値の低い学生が自己より優れていることをもって「俺があったバカ大生はすごかったなあ」というのは問題ない。しかし、それを根拠に「他のバカ大生もすごい」というのは避けねばならないし、他のバカ大生に期待するのは差別だ。
そういう話をしているのではなく、 問題なのは、自己の経験、感想から過剰な汎化を進めて木を森のように扱うことだ。 において、過剰な汎化であると自覚していない場合は差別にあ...