横だけど
ある程度立場決めて話さないと、意見も何にもなくなることがわからないんだろうね
あるいはわかっていながら、わざとそこをついて楽しんでるだけか
オレも好きだなぁ。
四肢切断。
これはないよな。
むしろ三次元の四肢切断では気持ち悪くなること必至。
セリフとして書かれた叫び声じゃないリアルな叫び声は嫌になるだけだし・・・。
Q.そこまで自分をよく分析しているなら、なんとか治せば。出来ることがあれば協力するよ。
治さなければならないとも思ってないからな。
どうしてそんなにひねくれてるのかな。
最初から斜めに読んでるから、何も受け取ることができない。
人生の中ではそういうときもあるけれど、あとで恥ずかしくなるよ。損をすることも多いよ。それでもいいと自分で選ぶなら止めない。私は後悔していることがたくさんあるから言うけど、でもあなたがそれを選ぶなら、止めない。あなたを見下さないから腹は立てるけれども。
別に転んでても動かないで眠っていても一人で走り始めても、好きにすればいいし、どの方法を選んでも苦労も楽しいこともあるだろう。どちらかだけではない。自分が納得できさえすれば、閉塞感は消えてなくなる。それだけのこと。いいねとおもうのならやってみればいいのに。
男だったら必ずしも成功するとは限らないって事。
先生は言いましたね「自分探しの意味がない」「それはごまかしでしかない」と
しかしね、先生、生きるということは常に誤魔化すことだと思うんですよ。
だって、こんなにも寒い日に、こんなにも不景気なのに、みんな笑っているんですよ。
みんな都合のいいものしか見ないんですよ、先生。
いつだって人間は誤魔化しているんです。
でも、それでもやるんですよ先生。
それが生きることだから。
先生、僕は間違っているでしょうか。
こんな記事も上がってたけど
「サイエンスアゴラは、やる気の無い団体とお役所仕事の税金泥棒の展示会かよ!!」
http://blog.livedoor.jp/youkaiteikoku/archives/50936070.html
なんか科学コミュニケーションやってる人たちって近寄りがたい。
いつも内輪で誉め合ってるか、裏でネチネチけんかしてる感じなんだよな〜
経験を胸にしまい、40か50か60までにいっぱい揉めて、子が出来てある程度育った後、お父さんお母さんすごかったんだねって思われると違うと思う。
俺はろくでなしだからかしらないけど、20迎えて親への観方は変わった。なんか、凄い人になってた。そういう日が来ると思うんだ。
独身の叔父さんも俺から見たらすげーだよ。超人だよ。俺にはあんな風になれないって挫折を覚えるんだ。身内の下からはそう見える。
同世代から見ても、正社員? 甘えてないって……どれだけだよっておもう。俺、ニートっす。そこまで有能じゃない。
でも、お前ら(学校行きました、働いてます、病気辛いです……etc)もっとすげーよ。すげーからなんか幸せは得るような気がするんだ。そりゃ幻想かな?
調子に乗りすぎてた。そういうことは覚えておく。次に生かす。すまん。
お互い
いやになったってことかな
こちらはいやになってはいないけれど
とても悲しい話だとは思うけれど
ねえ
とおりすがりの女の子が困っていたら
具合が悪くなったら
助けてあげるくらいの優しさはあってもいいと思うよ
そのときにしか優しくできないのだから
男の人はそういう優しさがあると思う
http://eiji.txt-nifty.com/diary/2009/11/post-30d7.html
から引用
【引用開始】
昨日もパックインで、子育て支援の話が出た時に、所得制限は絶対駄目だ!
と仰ったんですよ。朝日の高給を貰っていた自分にしても子育ては大変に金が掛かったと。
「年収一千万でも決して子育ては楽じゃない。もしそんな所で所得制限をしたら
金持ちは嫌気が差してますます子供を作らなくなって、貧乏人の子だくさん社会になる」と仰った。
私もこれに全く同感です。まず、地方はともかく、都会で年収一千万で子供を
学校に通わせるというのは大変です。それは私立だろうと公立だろうと。
一人だろうが二人だろうが。もう毎日のように不意の出費が襲ってきます。
それで、この年収一千万層というのは実は結構多いんです。みんなが名前を知っているような
一部上場企業は横並びでそうだし、今や公務員もすぐそこに手が届く。
しかも公務員の場合は、公務員住宅等恵まれていますから、額面で一千万に達していなくとも、
実は民間でそれだけ貰っている層に比する可処分所得な集団も決して少なくないんですよね。
所がこの階層は、日本ではサイレント・マジョリティなんです。
世間のやっかみを買うから滅多に発言しない。
彼らが物言うときには、必ず「庶民」というマントを纏って、決して自分の稼ぎが一千万あることは言わない。
そのせいで、彼らは、税金を取りやすい階層として御上から目を付けられるわけです。
我が家も生活が苦しいですけれど、うちはもちろん川崎市の小児医療補助制度からは外れています。
子供が病気になって総合病院の窓口とか行くと、ドンキとユニクロしか知らないような
親子の見窄らしい身なりを見て、事務職さんの十人が十人、小児医療費助成の…‥、と話掛けて下さる。
元帥も仰っていたけれど、こんだけ税金を払って、将来うちの子の肩にはジジババが
3人4人とのしかかるのに、行政からは何のサービスも無いことを腹立たしく思います。
限られた予算であれば、もちろん自分より苦しい世帯や母子家庭にばらまくべきで
あることは言うまでも無いけれど、所得制限を二千万に引くのならともかく、
一千万に引くのはナンセンスでしょう。
そこは数が多いし、決して楽をしているわけではないから。
庶民とは言わないけれど、余裕がある一般的に思われている階層にもインセンティブは必要です。
【引用終わり】
「年収1,000万円層に子供手当てが必要」という結論は同意しますが、
そこへ至る過程は異なる。
当方の理由は、
むしろ『自分の子育てを社会が正当に評価して欲しい』という欲求があるので、
その評価の手段として手当てを支給したらいい」というものです。
年収1千万円の層も、そりゃ手当がないよりあった方がありがたがるとは思いますが、
年収1千万円の層が困っているのは、お金の問題じゃないでしょう。
小学校から「お受験」すればそれなりに掛かりますが、中学受験からであれば、
節約したいのなら、東京都内を避け、浦和や千葉に移住すれば、県立浦和や県立千葉で
「年収1,000万円の妻」が欲しているのは、お金(手当て)よりも保育所サービスであり、
つまり
「子供を育てるということは、社会的に意義があることをしているんですね、偉いですね」と
メッセージを送ること、そのことに意義があるのだと思う。
特に、専業主婦で子育てしていたりする層だと、頼れる実家が地方だったりして
変な話であるが、年収300万のヤンママ層だと、「深く考えないで子育てする」ので、
あまり育児ノイローゼにもならないし、そもそも実家が近接しているケースも多いので、
祖父母にある程度頼れたりする。
一方、年収1,000万円クラスの場合、一定程度の学歴があったりするので、
子育てを「深く考えてしまう」ので、育児ノイローゼになりがち。
「育児ノイローゼ組の1,000万円の妻」たちは、
「社会人時代はそれなりに会社で評価されたのに、子育ては誰も評価してくれない」と
ネガティブ思考に陥り、まだ子供が産める年齢にもかかわらず「もう2人目はイラナイ」と
なってしまう。
この精神的に参っている「1,000万円の妻たち」に対して
「正当な評価をしてあげましょう。この子供手当てはその象徴です」という形で
給付するのであれば、それなりに意義があるとは思う。
「国(=社会)は自分の行いを評価してくれている」と精神的に満足すれば
「じゃあ2人目も・・・」と思う人が現れると思う。
「年収300万円のヤンママ」に対しては、本当に経済的理由から子育て支援が必要ですが
たとえ本人が聴いていなくてもいい。今は聞き入れる余地がなくてもいい。
誰かの耳に届くなら。
そう思ってつづってきたたくさんの言葉はたくさんの人に否定され、
ある一人には人間的におかしい劣っているとまで言われたけれども、
後悔もたくさんしたし、違ったなと思うこともたくさんあったけれど、
でも、指で数えられるほどの人であったとしても、救われたと言ってくれた人がいたから、
それでよかったんだと今では思っている。
自分のために書いているんだ。いつかまた迷った時のために。
27歳の秋。
しかしこれが難しいんだなあ…。
みんなどうやって設定してるんだろうな。
というのがよくあるパターンじゃないかと思うが、そうではない人はどうなんだろうか。
Zelig-like Syndromeと言うらしい
http://anond.hatelabo.jp/20091101163909
なんで女性ってこんな男にばかり引っかかるんだろう。
表面上の好きだけでいいんですか?
単純な話で、女が男を好きなるプロセスの第一歩が、表面上の好きから入る、だからだ。
どんだけ中身がいい男だろうが、表面上がいまいちならば、それは女にとっていまいちな男だ。
誠実だの浮気しないだのは恋愛にとってどうでもいいこと。それで女は楽しい気分になれるんですか?
不誠実でも、浮気してても、楽しくさせてくれる男がいい男なんだよ。
じゃぁあなたはなにをいうの?
「だから女は最後尾で寒さや飢えに苦しんで死んでいけ」とでも言うの?
あの時私は言ってほしかった。聞かせてほしかった。そんなに固意地を張らなくても楽に生きていけると、視点を変えれば違う世界が見えると、女であってよいこともたくさんあるし、これから悪いことばかりではないと、そういってほしかったし、そういってくれる人がいた。私はそれを返すだけ。もしあなたが元増田で今は何も聞き入れる余地がないとしても、たぶん私は書くだろう。あなたのために半分、あの時の自分のために四分の一、そして三年後の自分に向かって四分の一。私はきっとまたわからなくなるだろうから。
孤独感があっても、人に優しくできる人。
専業主婦か働くのかは分からないけど、苦労した分なんかな。
子供目線とかからすればそういう感じ。
相手がしゃにむにになっているならほどほどの立ち位置を提示するようなのが良いパートナーだと思う。
なんだか、見当違いの方に投げられていて唖然とした。
そういう風にしか見えないのがかわいそうね。人生万事塞翁が馬だよ。うまくいってるつもりがうまくいかなくなる。うまくいかないと思ってたことがうまくいったりする。努力をしろということを言いたいんじゃない、遠くを見なくていい考えなくていい、ただ地道に毎日を生きていけばいいだけだから安心すればいいということを言いたいだけ。先を見ても怖いだけだから。そして一度乗り越えれば、何とかやっていけるようになるから。
男性はこういう思いを乗り越えてない分とても弱く見えるよ。
ちょうど3年前、私が23歳だった時、その考え方から脱した。22歳の時、まさにそんな風に閉塞感を感じていた。
自分が女であることをひどく不利に感じ、男はずるいとしゃにむになって無理をして体を壊して、でも意地を張ってそのくせ恋人に結婚をにおわされれば結婚のことを考えていた。そして自由じゃない、何もできない、手足がもがれたようだとわめいていた。そういう時期も必要なんだと思う。
でも、遠い未来のことを考えていても選択肢が多い分女の人生というのは不確定だ。見れば見るほどわからなくなる。考えれば考えるほど定まらなくなる。そしてそれは本当に考える価値のあることなのだろうか?私はそう思った。考えていて、それで何か変わるだろうか、と。とにかく今できることもせずに遠い未来のことを考えて、あれもできないこれもできない、といって何も積み上げていない自分は何なのだろうかと自分を見つめなおして恥ずかしくなった。私には何もなかった。何かできると胸を張って言えることが何一つとしてあげられなかった。遠い未来は今、自分がやらなくてはならないことをやらないいいわけだったと自分で認めるしかなかった。認めることができた。
実際のところ、見るのは三年先でいい。あなたは経営者ではないのだから、自分の人生を考える上では三年先を見ていればいい。今日のことだけ考えているのではやっぱり頼りないけれど、5年、10年先を考えるのは経営者の仕事だ。私たちはそうではない。いずれそうなるにしてもまだ20代なのだから、今はきっちりと足元を固め、3年先の目に見える範囲で希望を持って考えられる範囲で、将来を考えていればいい。私は三年前にそう思って、そして閉塞感を見ないようにしてやるべきことをやってきた。そして今、ようやくたどり着いた場所であの閉塞感はなんだったんだろうという気持ちになっている。
子どもを産んでも、一年休暇を取っても、元の職場に戻ってきて同じように仕事をしている人はいる。家事はちょっと苦手とか言いながら、でも理解のある旦那さんと家庭を営んでいる人がいる。以前と同じかそれ以上の業績をあげるひとがいる。周りの人も育児に関して非協力的ではなく、子供が風邪をひいたと聞いたら心配してくれるひとがいて、早く帰れと言う上司がいる。子供が生まれたと聞いたらどんなに忙しくても仕事を調整して早く帰らせたりする。それが男女かかわりなく行われている。そういう職場に出会うことができた。私がやったのはただ、自分のできることをやって専門知識を一つ一つ確実なものにしていっただけなのに、そういう世界があった。私は三年先のことしか考えてなかったのに、いつの間にかそういう世界を選んでいた。
電車は混んでいるかもしれない。ホームからなかなか電車には乗れないかもしれない。一度降りたら最後尾かもしれない。でも、ただ黙って並んでいることだけが人生ではない。並んでいなくてもそこにいる人たちに弁当を配れば先にのせてくれる人がいるかもしれない。ただ黙って看板を張り替えていれば、次の駅でもやってくれと言われて電車に乗せてもらえるかもしれない(その代り次の駅で降ろされるけれども、でもやることはある)。死にそうな顔をしてうずくまっていれば代わりにのせてくれる人もいるかもしれない。いや、そもそも満員電車の中で、みんな同じ顔をして思いつめて吊革につかまっているだろうか。立っている人の中には誰かからのメールに微笑んでいる人もいるかもしれないし、途中駅で降りるためにそわそわしている人もいるかもしれないし、本を読んで涙ぐんでいる人もいるかもしれない。誰もが終着駅まで行きたがっているわけではない。誰もが終着駅のことを考えているわけではない。
あなたがすべきことは、今自分がやるべきことはないかを考えて、できる限りの最善を尽くして、そうやって一生懸命生きていくことだ。それが三年後につながる。さらにその三年後はまた道に迷っているかもしれない。寒いホームに佇んでいるかもしれない。あるいは特急列車に乗り換えて悠々ともっと先まで行っているかもしれない。それは誰にもわからない。でも、そんなに怖いことではない。
三年前の自分を見ているようでつい書いてしまった。余計なおせっかいだったらバカもいるもんだと笑ってください。あなたが毎日が楽しいと言えるように祈っています。