そういう人たちはボトムアップ調整型じゃなくトップダウンで反対派には抵抗勢力のレッテル張って叩きのめす爽快な政治が見たいんだろう。
国対政治とか密室談合とか批判されがちだから足して2で割ってなあなあのコンセンサスをとること自体を悪とみなす風潮があるから小泉劇場がもてはやされるんでしょ。
まさに!あなたみたいな頭の撫でられ方が一番大嫌いです!(笑
多分、いきなり触ってきたらイラッとしますね。イケメンでも。こちら側にも下心あった場合は置いといて。
多分、いきなり触ってきたらイラッとしますね。イケメンでも。こちら側にも下心あった場合は置いといて。
あなたはそうやって、やりたい時には頭を撫でて合図するということですね。わかります。
今回、私がイヤだと言っていることは、普通にしゃべってる時に、頭ポンポンされたり、背が小さいから、手を置くのにちょうどいい位置にある頭の上に手を置いてくる人のことです。これが嫌いなんですよ。
頭を簡単に触る確立が多いから「男」にしましたよ。
触られるのがイヤなのは、もしかしたら私だけかもしれませんけどね。その辺は、確かに主語を変えたほうが良かったかも。
ご指摘ありがとうございます。
ただ、テクニックとして頭を撫で回している人について今回考えてなかったけど、やっぱり好きじゃない。
これに関しては、ぜひとも統計を取りたいです。
90年代後半以降の格差問題を考える上で、社民党(旧社会党)の罪を過小評価してはいけない。
デフレ不況の大きな要因である日銀の独立を、今でも功績として誇っているからね。
弱者の味方面をしながら、その経済への無理解から就職氷河期世代やリストラ中高年、
さらには自殺者の激増を招いた。まあ党本部の職員に労働問題で訴訟沙汰起こされているような
人達でもあるから、大手マスコミと同様にどこまで弱者のことを本気で心配していたのかわからないけど。
もちろん当時連立を組んでいた自民党の罪も当然ながら大きい。
たとえば、現在総裁選で名乗りを上げている与謝野馨は、90年代後半の不況二番底をもたらした
政策決定の中心人物でもある。今「あたたかい改革」などと嘯いているけど、彼自身は幾つかの
インタビューで、当時の消費税5%増税を後悔していないと宣っている。
本音では国民生活のことなんか頭にないんだね。財政の帳尻合わせをしたいだけ。
まぁ、世の中そんなに貴女のことは見てないよ。ってところだけは合ってるな。
結局、好意がバレるという恥と、何この勘違い女って思われる恥の天秤だと思うのだが…
女へのモテは顔じゃなくて、嘘がつけるかどうかじゃない?
あの人たちは、嘘でも良いからXXと言ってという世界の住人だからね。
お前だけを愛してる。お前が世界で一番だ。
どうみても、嘘です。本当にありがとうございました。
詐欺師『お前だけを(今は)愛してる』>>女『お前だけを(ずっと)愛してる』
結局まゆ毛の長いおじいちゃんに良い思い出を作らせてあげただけで終わっちゃいましたが。
なるほど。「ある程度は」ってことか。それならわかる。
自然現象でもコントロール可能だったりするし、人為的でも人間がコントロールできるとも限らないだろ。あとインフレ率がコントロール不可能というのも程度問題。ほとんどの先進国は目標値の範囲内にしてる。日銀だって目標の範囲内にコントロールしてるわけで。ただのその目標値がデフレ圏だから問題なわけで。
だいぶ前にあるテレビ番組で取り上げられていた女性画家について思ったことを書いてみる。
以前民放でも取材されており、それを見たときは、「暗い絵だな。」「タイトルが思わせぶりだな。」という程度であった。たださらに前に、週刊誌で注目の美女とかいうテーマの各界で活躍している若い女性を取り上げている中に、女優然とした雰囲気でたたずむ女性がひときわ印象的で名前は知っていた。
一般に容姿が重要視される職業以外に就く女性が、通常レベルと思われているものよりやや上だと途端に「美人何々」と評されることがよくある。これは、褒め言葉というより、女性を貶めているように感じるのだが、それはひとまずおいておく。
この「美人画家」は、そこそこ売れているらしい。女性画家といえば、片岡珠子、小倉遊亀、マリー・ローランサンなどが浮かぶし、彫刻家ではカミーユ・クロディーユが浮かぶのだから、まあ絶対的な数は少ないが存在しないわけではない。特に絵画、彫刻について学んだことがあるわけでもないごくごく素人なので、今回取り上げられていた画家の作品についての良し悪しについて語る資格はない。
驚いたのは、彼女の衣装である。
どれもファッション誌から抜け出たようなのである。上背もある方らしく、着こなせるということもあるのだろうが、どれもが一枚の写真に収められることを考えていることが見て取れる。ああ、洋服とは身体で着るものなのだと思わせるにはあまりある。
番組全般で見られることを完全に前提とした洋服選びと言っても過言ではないだろう。生活感を感じさせない。当然、テレビカメラが入っているのだから、万人に見られるという意識はあるだろうから、当然と言えば当然だ。
最初にのトリエでの姿は、ヴォリュームのある濃いグレーのローゲージニットに黒のハイソックスに黒のミニスカート。髪はポニーテール?というのだろうか、トップでまとめている。
自分について語るときは、長い髪をおろし、巻いているのだろうか、タレントとして活動している某姉妹の姉のように、ゴージャスでアイメイクが強い。
教授の研究室を訪れる際は、髪はまとめているが、くっきりと濃いメイクに、黒いミニスカート。
この時、気になったのは、入室にあたり、随分とへりくだるのだなということ。何度も小さくお辞儀をするのはエレガントには見えない。緊張していたのだろうか。
またアトリエでは、チャコールグレーとベージュの中間のようなミニスカートに太めの網タイツ、シルバーのパーカ。
彼女が学生時代から感銘を受けているという絵を観にいくときは、訪問着。とても素敵でよく似合っているのだが、勿論、年齢もあるのだろうが迫力がある。お嬢さんという雰囲気でも若奥様という雰囲気でもなく、銀座のクラブ(行ったことないけど)のママのような貫禄がある。
またアトリエでは、ロイヤルブルーを薄くした色の膝上ワンピースに黒いタイツ。
髪は緩く巻いている。しかし、なんというか体格がでかい。決して太ってはいないが、肉感的にみえるのはテレビだからだろうか。
またアトリエに教授が来訪した際に身につけているのはドレス・・・・・?ワンピース・・・?ラベンダー色のノースリーブ。昼だか夜だかはわからないが、何故またネグリジェみたいな服なんだろうと思った。大変失礼ながら、それでは高級娼婦に見えてしまわないだろうか。しかも何故アトリエで・・・。緩く巻いた髪に、濃いメイク。お顔立ちがくっきりした方。
最後は、某大学院教授との対談。白いワンピースに黒いベルト。髪はストレート、昼間の外だからかメイクは若干薄め。この教授の話し方は、さすが対話慣れしており聞きやすいスピードと明確な言葉を用いており、なるほど頭の良い方なのだろうと伝わってきた。著作を何冊か読んだことがあるが、いつも『強者の理論』の方。教授は、昼間の外には、残念ながら不釣り合いな光沢のあるジャケット。夜に演奏会にでも出かけるのだろうか。もう少し軽めのニットなどにしておけば洗練さをアピールできたのに。
画家にはちょっとがっかりした。自分の言葉で語るには充分な年齢のはずなのに上っ面をなぞっているかのようで、響いてこない。使う言葉が、下品にもとられるものだから、どうなんだろう。
画家なのだから、センスが悪かったりすればファンをがっかりさせるのだろうし、存在をアートにしたいのだろうか、番組全体を通して、いつでも寸分の隙も見せてはいけないかのような印象を受けた。
一枚の絵があって、それが世に出るには様々な方法があるのだろう。
絵はそれを鑑賞する者に言葉以上の力で迫ってくることが出来る。
しかしそれを生み出す側にどのような苦悩があるのかは鑑賞者には関係のないことだ。
なので、生み出す側が自らの作品について語る姿を見ると、私は少々げんなりしてしまう。
言葉を介在しない表現方法を以て世に出ているのだから、必要ないのではないだろうかと思うのだ。
けれど、ファンならば私生活が垣間見られるような語り口に興味を持つだろうし、より人気がある人ならば番組も作られるだろう。大衆の欲望には限りがない。
おそろしいのは、話し方や身のこなし、仕草すべてがカメラを通して、見られてしまうことだ。
人間とは、こうも無防備に己をさらしてしまうのだ。
低い声と落ち着きがなさそうな口調。カメラを前にして平静を保つことは難しいだろうが、何か少し腺病質なのかなと思わせる。また暴力的な体験もあるらしく、平坦な生活ではなかったのかもしれない。
この番組を観て、彼女の個展に行ってみようとは皮肉なことに思わなくなった。書店の画集で良いかなと。
それより彼女が影響を受けたと公言していた作品群を今後は観ていきたい。
ひとりの人間が世に出るにはさまざまな方法があるのだろう。凡人ですら日々のあれこれに思い悩みまどうのだから才あって生きる人の苦悩たるやいかに。
思想について寛容であることは素晴らしいことだと良くいうけれど、その寛容な社会を破壊しようとする明らかに排他的な思想に対して、寛容な社会はどこまで寛容でいられるのだろう?
寛容な社会を破壊されるからといって、排他的な思想を排除しようとすれば、寛容は転じて排他的となるわけです。これでは矛盾してしまう。
かといって、排他的な思想を受け入れてしまうと、寛容な社会は破壊されかねない。