前Cside使ってたけど結構よかったよ。
会いたくないって、何度も聞かされた。
でもあなたのこと、忘れられないの。
だから最期に一度だけ、会いたい。
でもね、あなたが嫌な顔するの、見たくない。
だから考えました。
おまわりさんに連れて行ってもらいます。
引っ越した、あなたの居場所を知る方法はひとつ。
おまわりさんから、
そして、連れて行ってもらいます。あなたのところへ。
タンパク質の塊になった、あたしの顔を見てください。
忘れようと思った、あたしの名前を呼んでください。
そうでないと、あたし帰れないから。
抱擁も、握手も、喋ることすらしなくていい。
ただ、あたしはあなたに会いたいの。
あたしは、あなたが嫌な顔をしているのは見ません。
見ることは、できません。
windows movie maker使ってたらクリップの時間指定できないのがつらい
http://anond.hatelabo.jp/20070518115612
なんでsakuraなんだろう。なんでsakuraを選ぶのか分らない。いや、自分も使ってるんだけど。
なんだか、堅実で信頼できるイメージがあるんだよな。硬派で堅気のサーバ屋さんって感じがする。
なんでか分らないけど。
四大行った知り合いが就職か夢追い人としてフリーターになるか悩んでる。
堅実なのは就職だけど、一度の人生だから夢を追ってみたい、ってのがあるみたい。
そんな話をしている時にその子はこう、口にした。
「今宝くじで三億当たったら、両親に今まで自分を育てるにかかったであろう1億か2億渡して、
『申し訳ございません』ってすっぱり縁を切るのにな」
…ちょっと複雑な気持ちになっちゃったんだけどこの感情に名前がつけづらい。
それなんて僕はうどんよりそばが好き?
「こっちの方がクリック率がいいんですよ、ユーザーとwin-winなんですよ」とか適当なこと言えば、AdSenseをすぐに電通モデルに変えてしまいそうだ。
適当、って言っても、クリック率はクライアントでチェック出来るし、出稿金額が一緒なのにAdSenseより配分が多い、ってことは、googleの次の代理店(これは架空の話なので電通とは言わない)のほうがマージンが少なくて良心的な営業してる、ってことだよな。
だとしたら、悪く言えば「それでもgoogleを選ぶのは信者だけ」ってことだけだし、良く言えば(本当にgoogleがnot evilなら)AdSense料率も上げてくるはずだからその条件はサイト運営者にとっては美味しい話じゃないかと思うんだが。
せめてログを大事に持っている人は?
ごめん。90年からしかないんだ。でもね、あの人の若かりし青春の一ページはちゃんとあるよ!
http://groups.google.co.jp/group/fj.jokes/browse_thread/thread/38b605ba3f8d53ec?hl=ja
「Twitterとは、量が質を産む作業そのものなんじゃないかと思った」
それは絶対にない。ありえないと言ってもいい。量は質を生まない。
インターネットにおいて、個人の著作のほとんどは書き捨てだ。古のテキストサイトでも、ニュースグループでも、Blogでも、mixiでも、はてなブックマークでも、たくさんのクズが生産され、消費され、忘れられてきた。Twitterがこの列の最後尾に加わっただけの話。ニュースグループを未だにチェックしている人は手を挙げて?せめてログを大事に持っている人は?
いやいや、ニュースグループは長年よく頑張ったじゃないか。Twitterがこんなに長生きするとは思えない。今ログが全部消えても、日本じゃ裁判にさえならないだろう。Bloggerがいつも通り口だけ偉そうな批判を行って、それでおしまい。みんな心のどこかでクズを生産していることに気付いているからだ。年寄になってTwitterのログを読み直したい?「お爺ちゃん、仕事中に何してたの?」って。
大原則:クズはどれだけ集まってもクズ。別にインターネットに限った話じゃない。雑誌だって本だって映画だって、ほとんどはクズとして生産され、クズとして消費され、クズとして忘れられていくのだ。
そんなことない、例えばクズじゃないBlogもあるじゃないかって?その人は頑張っているんだろう。ちょうどクズ作家の中にクズじゃない作家がいるみたいに。でもBlogというシステムが、クズの山から質を産み出したのか?いいや、ただGoogleの精度を下げて、クズの流通を後押ししただけだ。
はてなブックマークも変わらない。誤解する人がいるけれど、これはただ良いものを流通させるシステムであって、クズに魔法をかけるシステムじゃない。そもそも「綺麗なアイコン50」みたいな記事を流通させるべきなのかは別にして。いや、よく考えてみれば、はてなブックマークには一部のクズ記事を盛り上げる「晒し」という魔法があったな。まったく、素晴らしい発明だよね。
新しいメディアが現れると、必ずこうして「このメディアはクズから質を生みだすのだ」と言いだす人が現れる。これは「僕の生み出すクズをなんとかして」という叫びでもある。もちろん、なんともならない。技術の進化を待つより、日本語を学び直したほうがずっと早い。
スタージョンの法則は正しい。「どんなものも90%はクズ」なのだ。増田も非モテとか非コミュとか、クズみたいな話ばっかり。でも人間はクズ話が好きだ。いいじゃん、クズで。楽しいんでしょ、Twitter。交換日記、夏休みの工作、一度だけ書いた小説、RPGツクール…クズを作るのに躍起になっていたことも、いつかはいい思い出になるのだ。だから質を生むとか言う口は閉じたまえ。
Finderってファイラだよね? だとすると、ランチャ(=実行するためのアプリ=dock)と同質って思想じゃなくて、ファイル整理のためのアプリって思想なんじゃない? もしかすると
で、各アプリに最も優先される動作をEnterに割り当てるとすると、iTunesは再生、Safariは閲覧、Finderは整理……なんだけれど、移動とかの操作はEnterだけで実行はちょっとキツいから改名とかじゃない?
少なくともCommand+Oの方は統一されてるんじゃないかな。
基本的には「このアプリに外部からファイルを読み込む」コマンド。Finderの場合はそれ自身が何かファイルを読むわけじゃないから、デフォルトアプリに渡すようになってるけど。
で、ファイルオープンの挙動が統一されているからこそEnterには決まった役割が振られてない。要するに「決定」ボタンなわけだけど、それが何を決定するのかが問題。
不合理っつーか「Winとは違う」だけだろそれは。いつからEnterキーが「ファイルを開く」って意味になったんだ。
「Winとは違う」というよりは「この絶好のキー配置をファイルリネームなんかで潰してしまって勿体ない」という点から不合理だと言ってるんだが、その辺についての反論はないのだろうか。みな一様に「仕様だ」と言って逃げるので、この際ちゃんとした理由を知りたい。
まああえてその論法に乗るならば、ファイラーやランチャーなどのアプリケーションやシステムでは、Enter押し下げでそのオブジェクトを開く・または実行する動作になるのが一般的だろう。そうでないというのならば、それなりに納得のいく反証を示してもらわないと。
そして、そういう動作にならないのはMacのFinderくらいしか知らない。あえて普遍性を曲げてまで、こういう仕様を採用している理由を知りたい。誰にでも使いやすい優れたインターフェースを誇りとしているMacならば、一見理不尽とも思える仕様にもちゃんと理由があり、誰もが納得できる解説が用意されているんだろうと思っているんだが。