元日に届くことがそれほど重大なことだろうか。
たとえば1月中に届けばいい,と考えることは出来ないか?お正月くらいもっとのんびりした雰囲気になってほしい。
そういう雰囲気を作るためにできること,まずはお年玉抽選会は2月以降に。郵便局も「25日までに出しましょう」というアナウンスをやめる。年賀はがきの販売を1月の3週目くらいまで続ける。いっそ元日は配達をお休みにしてしまうのもよい。出す方も,年賀状は元日にのんびり書いて出すものだと考えるくらいになりたい。忙しい師走に年賀状を用意する時間を節約できる。元日に届かないことに腹を立てるのもやめたい。そういう常識を排除したい。
私はわりと「終わった恋」をひきずる方だ。基本的に、「次に好きな人ができるまで」は前の人をずっと想い続けてしまう。相手にとっては鬱陶しいことこの上ないだろう。「一途」とか「粘着」とかいろいろ表現はあるけれど、当たり障りのない言葉で表現するとしたら「不器用」というところか。
でもこれを読んで気づかされた。もしかして、私が好きだったのは相手ではなくて「相手のことを好きな自分」だったのかも。だからいつまでたっても断ち切ることができないんだ。
君が癌で逝って以来、まともに恋ができなくなってしまったよ。
君の顔も君の声も君と遊んだ事も
自分の想い出の中から薄れていきそうで、つい回顧してしまう。
そんな事考えてたらダメなのにね。
僕が心の残りなのは、君の気持だ。
周囲には君の命は、もっと明日までだという事を絶対に君に言うなと口止めされていたんだよね。だから、君がいなくなったら・・とかさようならという話もできなかった。
それが今でも心残りなんだよね。
僕は今でも君を忘れて別の人との道を歩むべきかどうなのかやはり君の返事が欲しかったんだよね。
来世であえたとしても。
でも、君は最期を解っていたんだろうなー。
これは推測だけどね。
最期の夜に病院のベッドで抱きしめてくれた事は唯一の返事と考えるべきなのだろうか。
まったく・・このパズルは僕が死ぬまで解けんな。
と思った。匿名ダイアリーに書けばヘビーpickerでnewsingネタ大好きなkamexか、匿名ダイアリー見てるっぽいyokomineが拾ってくれるでしょう。それか1日くらい経って自分で
「匿名ダイアリーにnewsingについての書き込みがありました。興味深いですね」
としれっとpickupすればOK。自分のブログに意見書いてpickupするのもありだけど、newsingではセルピク(+1get空セルコメ)だめよな雰囲気で色眼鏡で見られるし、自分のブログをばらしたくないユーザーもいる。wakuwakustyleみたいに、セルピクはするけど自分のブログにnewsingの事書きたくない人もいるだろうからね!
newsingの欠点は、ソースが存在しない事柄について議論できないこと。例えば今、「バンクーバーオリンピック成功の可否」とか全く旬じゃない話題について語ろうと思っても、ニュースソースがないと議論を始めることができない。かといって自分のブログに自分の意見を書いてpickupすればセルピクになる。んじゃ、匿名ダイアリーに議題提議→newsingにpickupで、2chのスレ立てやmixiのトピ立てみたいにできるんじゃね?と。
俺的にはnewsingのコメント1回200文字ってのは気に入ってるんだよね。何回もコメントしたかったり、200文字じゃ足りなかったりする時もあるけど、オーマイ事件の時に延焼の抑止力になったし、1回しかコメントできない分考えられたコメントが並ぶしさ。フル開放したらただの掲示板だし。
ということで、これから長文でnewsingに意見したいときは匿名ダイアリーを使うといいよ。「newsingのためだけに匿名ダイアリーをツールとして利用する」ってのが、かつてのオーマイユーザーみたいで微妙だけど。
※あえて増田とは言わない。
書いてある通りMixi以外でこういうことをしたことはありません。
また、あの記事を書くにあたって何かを読んだわけでもなく、そのWeb2.0の人も知りません。
気を悪くしたのならすまんね。
「不都合な真実」という、地球温暖化を描いたドキュメンタリー映画が大変アメリカでウケているそうです。アカデミー賞にもノミネートされ、日本でももう公開中なのですね。
そこで「環境危機をあおってはいけない」で地球温暖化なんて重要じゃないと言っていたビョルン・ロンボルグがこの映画をどう言っているのか気になったので、ちょっと調べてみました。無断翻訳なので匿名ダイアリーに投げてみます。
http://observer.guardian.co.uk/comment/story/0,,1810738,00.html
500億ドルあれば、私たちは地球をもっと良い場所に出来るでしょう。でも地球温暖化対策に使うのはおそらく無駄です。
ある街に1000万ポンドの余分なお金があって、なにか良い目的に使おうと考えていたとします。十のグループが援助を求めてきました。最初のグループはスラム地区の学校のために新しいコンピュータを買うべきだと言っています。次のグループは公園の美化を求めています。それぞれが、達成することでどのような価値が生まれるか、説得力のある案を提案してきました。街の議員たちはどうすべきでしょうか?お金を十に分割して配分するのが一番簡単な答えに思われるかもしれません。しかし、この答えは間違っています。
どのような時でも、幾つかの提案は他の提案より良いものであるはずです。どの提案が最も社会的な価値を生み出すか私達が知っていたならば、それらにお金を回すのが妥当でしょう。
より大きな視点では、各国の政府と国連が莫大な、とは言え限りのある予算を用いて、地球上の問題を減らそうと考えています。一方で彼らはメディアのうつろ気な注意に引き付けられてしまって、間違ったお金の配分を行う傾向にあります。HIV・エイズ、マラリアや栄養不良との戦いに費やされるのは少しだけ。不正や闘争の政治的解決により多くのものが費やされています。残りのお金は地球温暖化を抑え、鳥インフルエンザ対策に取っておかれます。
政治家がみんなに何かを与えられるなら誰も文句は言いません。しかし余分なお金のあった街の例のように、政府や国連にも、どのようにお金を援助するか明確に定めた合理的な枠組みがあった方が良いでしょう。政策立案者にとって、援助候補の並んだリストはレストランの巨大なメニューに似ています。しかし、それは価格や量が書かれていないメニューなのです。
現在、政府が地球温暖化との戦いに加るべきだという、かなりの勢いがあります。元アメリカ副大統領のアル・ゴアは映画製作者に転身し「不都合な真実」というタイトルの映画を作っています。
しかし本当に「不都合な真実」なのは、2004年にデンマークで経済学者たちが示したデモンストレーションです。このデモでは、京都議定書に従った地球温暖化との戦いは、費やすお金ほどの社会的価値を生み出さないことが示されました。四人のノーベル賞受賞者を含むこの経済学者たちはコペンハーゲン・コンセンサスと呼ばれるプロジェクトに参加しています。人類が表面している複数の問題について、解決策の社会的価値を比較するという試みです。そして彼らが答えようとした疑問は「500億円の使い道で、一番世の中を良くする見込みがあるのはなんだろうか?」です。
HIV・エイズ、飢餓、世界紛争、地球温暖化、政治的不正、その他の問題への挑戦について、様々な方法でコストと価値が検討されました。そして特別に任命した研究により、どうすれば政策立案者が一番世の中を良くする見込みがあるかを示した、優先順位付けされた援助先のリスト、「なすべきことリスト」が作成されました。
この結果、経済学者たちは、270億ドルをHIV・エイズ予防に費やすことが、人類にとって最も見込みのある援助であると分かりました。6年で2800万人以上の命を救い、生産力向上を含む巨大な効果を生むでしょう。
微量栄養素を多く含んだ栄養補助食品を提供することが二番目の優先順位になりました。地球上の半分以上の人間が鉄、ヨウ素、亜鉛、ビタミンAの欠乏に苦しんでいます。栄養剤のような安価な解決策は費用対効果がとても高いのです。
三番目は貿易の自由化でした。政治的には難しい決定を必要とするでしょうが、これは著しく小さなコストで世界中、特に発展途上国に、価値を生み出すでしょう。自由貿易により毎年2兆4000億ドルという驚異的なGDPの増加が、先進国においても発展途上国においても等しく生じるはずです。
経済学者たちは次に、化学的に処理された蚊帳でマラリアを防ぐことが巨大な価値を生み出すと見込みました。それからリストに並ぶのは、世界で最も貧困にあえぐ10億人のための農業の研究、公衆衛生の向上、水質管理です。これらへの援助から得られる価値はコストをはるかに上回ります。
HIV・エイズ予防については、費やした1ドルあたり、40ドルの価値が生まれるでしょう。言い換えれば、コンドーム1ドル分は、エイズが蔓延したコミュニティにおいては40ドルの価値になるはずです。
みなさんは、それではなぜ、そうしたコミュニティの人間が自分たちでお金を費やさないのか、と尋ねるかもしれません。答えは通常、そうしたお金がより裕福な国や国連など、他の場所にあるからです。リスクに関する情報を得るのはなかなか難しいのです。また、HIV・エイズの影響は遠くまで広がります。今日の一つの感染が、将来より多くの感染を引き起こし、たくさんの家族やコミュニティを壊滅させるでしょう。しかしながら、先に示した個々の援助案については、こうした将来のコストをほとんど考慮に入れていません。
経済学者たちは京都議定書の実行や、二酸化炭素排出への課税を含む、地球温暖化対策に関する提案についても調査しました。結果は全て悪いものでした。世界の限りある資源を地球温暖化との戦いに費して成功するためには、得られる価値よりも多くのコストを支払うことになるでしょう。そのお金は他のところで使うべきです。
以上がコペンハーゲン・コンセンサスで経済学者たちが「世界が今なすべきことリスト」から抜本的な地球温暖化を外した理由です。
この経済学者たちによって生まれた優先順位付けを、学術的な運動以上のものにしなければなりません。地球上の問題を減らすための決定が高い透明性と合法性を持つためには、政治的運動にならなければなりません。
先月、ジョージタウン大学に、著名な国連大使のグループが彼ら自身の「なすべきことリスト」を考えるために集められました。アメリカ、中国、インド、パキスタンを含む、人類のおよそ半分を代表する国の人達がいました。
彼らはどういう選択だったのでしょう?驚くべきことに、それはコペンハーゲン・コンセンサスで経済学者たちが選んだものと似ていました。彼らは健康、水、教育、飢餓に関する問題への援助に世界が最も優先付けを行うべきだと同意しました。また、おそらくはさらに勇敢なことですが、一番に持ってくるべきではないものについても述べました。そこには金融不安への解決と地球温暖化対策が挙がっていました。
世界の意思決定者のために、地球上の問題に優先付けを行うという概念を議題にしたことは、このプロジェクトにとって重要なステップでした。彼らは運動をさらに先へと進めようとしており、秋にニューヨークで行われる同様の運動では、40人か50人の国連大使が参加するよう望んでいます。しかし結局のところ、優先順位はノーベル賞受賞の経済学者が決めるものでも、国連大使が決めるものでおまりません。社会的な討論と、民主的な決定によるものなのです。
様々な援助を求める声が絶えず増え続け、政治家と有権者がそうした競争に直面する世界において、コペンハーゲン・コンセンサスのプロセスは、ただ声の大きい提案者の援助ではなく、最も価値を生み出す援助へと意思決定者の目が移るよう、助けることが出来ます。
このようになにかを決定するための信念を持った枠組みを提供することは、結局のところ世界の限られた資源をほとんど人類のために費やすことになるかもしれません。この選択肢は無視し難いでしょう。
告白して振られて友達でいたいと言われて、今も交流はあるのだけど、恋していた頃はあれも話したいこれも話したい何日も話ができないときはさみしいと思っていたはずなのに、そういう気持ちが薄れてしまって、まるで友人としての好意まで薄れてしまったみたいな気がしてさみしい。申し訳ないような気さえしてくる。一方で、このままこの距離感に慣れてしまえば恋としては忘れられるのかなとも思う。そんな風に、いこうかもどろうか、みたいな迷いを感じている時点でもう峠は越してしまったんだなあとも思う。
相手が望んでいたのは、面倒さや重さを感じないで済む程度に私に勝手に惚れられてて優しくしてもらえる状態で、というと表現がとても悪いのだけど、でも多分そういうことだったんじゃないかなと思う。恋していた頃はそれでも、それが快適なら好きなだけその状態続けますよー、見返りなんて君の笑顔で十分だ!ノープロブレム!と思っていた。でもなんだか今は、いやーなんかもういいかな、って感じ。
むしろ。あなたへの恋心を忘れてしまって、あなたのことを他の人より優先して気にかけてた私じゃなくなっても。それでもあなたは友達でいたいと思ってはくれるのでしょうか?
匿名だからこそ書ける事。
書いてる自分が匿名だと感じれば
客観的に書けることも多くあるん
じゃないかと思う。
ふむふむ。
彼女が亡くなって3年。
あれ以来、ドラマや映画等で人の死のシーンを見ると泣いてしまう事が多々あるようになった。以前はそんなシーンを見てもなーんも感じなかったのだが。
そういうシーンを観るとキューとなってしまうんだが・・これは良くない事なのだろうか。できれば、これを治したいのだが。
こちらに巫女の日を商標登録するに至ったかを示す文が書かれている。
以下は転載
2006-09-13 (水) 00:51:32
安易な巫女イベントが増えたら、巫女のイメージダウンに繋がるんじゃなかろうか?
これは非常に由々しき事態である!
良家に仕える女性。
ヒラヒラした服装をしているのが理想。
メイド喫茶等に行くと「お帰りなさいませ、ご主人様」と出迎える。
ヒラヒラした服装をしている。
こんなイメージが流布して公共における巫女のイメージとなってからでは手遅れなので、
なんとかせねば。クラスを付けたライセンス制度を作れば、ちょっとは世の中が
先手を打っておきたかったと言うのはあったに違いない。
また、巫女のイメージを自分で引っ張りたいと言う野心もあったのだろう。
しかし、巫女がメイドと比べると(歴史が長いとはいえ)マイナーなジャンルで
あったと言う事や皆の持ちあいコミュニティによって形成されてきた経緯を考えると
自らマスコミに出るなりして自分のイメージした巫女のイメージを広める努力をした方が
まだ良かったのではないかと思うのだが。
そういうのなかったら俺みたいになってしまうもんね。ちゃらんぽらんな自由なんか捨てるほうがええのよね。わかっとる、わかっとるたい。
自分もそういう人間です。
でも自分がそういう人間だからといって、そういうことを書いたのでは自分自身が面白くないんです。
はったりでもなんでも取り敢えず書いてみたら、ああいう文章になりました。
まぁ最初だから舞い上がっているだけだったりするんですけどね:-b
http://anond.hatelabo.jp/20070124142253
何かを書く(表現する)というからには、誰かしらにとって面白いものでなければいけない。
遠い場所で向上心溢れる同輩たちと頑張って欲しいタイプの人間であるな。
身近には絶対に居て欲しくない。
これは凄い。
ちゃらんぽらんなことが出来る世界でそのような矜持を敢えてもとうとする心意気。
そうやね、大切やね。そういうのなかったら俺みたいになってしまうもんね。ちゃらんぽらんな自由なんか捨てるほうがええのよね。わかっとる、わかっとるたい。
http://anond.hatelabo.jp/20070124145302
手に入らないもの=芸能人とかだとそうっすね。
でも凄い個人的な感覚では、芸能人に向ける好意と身近な人に向ける好意は違う気がしてるんですけどね。
前者はなんつーか鑑賞的な好意であって、恋愛感情とは違うような。
よく「目の前に栗山千明(個人的趣味)が現れて『好きです、付き合ってください』って言われたら付き合うだろ?」みたいな話があって、独り身だったらそりゃまあ飛び付きますが、既に自分に恋人が居たら頷かないと思うんすけどどうなのかしら。
彼女が「ジョニー・デップに言われたら乗り換える??」とか言ってたらショックだな。俺は芸能人の代用品なのかと。代用品を選んで生きるなんてのは結婚だけにしてくれと。
http://anond.hatelabo.jp/20070123211622
別に何が「一番」かなんて迷わないっていうことですよね。
迷いうるけれど、迷うんだったら付き合いを続けるべきではないと考える。
迷っていて付き合う=他の人に目移りしながら付き合いを続ける、というのはとても誠実とは言えない。
勿論、とりあえず付き合ってみて互いに好きになりあえるかを試す、というのはありだろうけれど、確認してダメっぽいと分かってもなお付き合うのは不誠実であろう。
結局、恋人に本当に求めるのは、体じゃあなくて心でしょう(いや違う体の方が大事だ、という人間とは相容れない)。
だから恋人契約で体を縛るのはおかしい。縛るなら心だ。
とはいえ、心を完全に縛ることは不可能。
なので逆に、「私は今も他人に心を移していません安心してね」という、防虫剤の取替えサインみたいなものが「恋人関係」だと考えている。
もっと気になる人ができたり、或いは恋人に幻滅してその他大勢以下の魅力しか感じなくなったなら、「他に好きな人が出来た」とか「あなたのこともう嫌い」とか言って恋人関係を解消すればよい。取替えサインが浮かび上がるみたいに。
セフレはありじゃないかと言っている人の大部分が実際にセフレを持ったことがない人な気がする。
実際やってみると空しいぞ。セックスにあるべき愛情やら何やらを全部抜いて、快楽の追求だけのために肌を合わせることの空しさ。感情がないふりをしても、やっぱり感情は殺せないからね。
セフレも浮気も、大多数の人は一度やったら懲りると思うよ。それで傷つかないようなタフ(?)な人はやってみたらいいと思うけど。
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