先日、あることで死にたくなりながらフラフラと街を歩いていた。自分でもこんな気持ちになるもんだなと驚き、さてどんな風にやったろかい!と考えたがやっぱりさっき原因となることが起きたときに、その場で「てめえのせいじゃあ!」と勢いよく死んでやればよかったなと思い、もう機を逸してしまったことに気づいたのだった。
それからどうせだったら世の中のために死んでやるかと思い、消費税を5%にしてくれい!と叫んで死んだろかと思い、首相官邸に行こうか国会に行こうか悩んだが、そもそもカゲバラ切った直訴は届くもんかねと悩み、家に帰って酒を飲んで寝た。
思えば、前の職場はよくよく人が死んだ。新人研修で自殺、業務中、よくある研修中自殺、熱中症で寝たきりになったり、最近でも同じ週に3人死んだ。自殺を止めたこともある。そしてうちうちになかったことになった。
そして何も変わらなかった。全ては個人の精神的な問題によるものとされ、イレギュラー扱いになり、変化の要因とはならなかった。
人の死に関わった組織の人々がみな薄情だったとは思わない。ただ組織は人の死を受け入れ、その意味を汲む方法論を持っていなかったと今は思う。
どうしちまったんだよ!日本!ハラキリで意地を通すサムライの国だろうが!ジメジメと樹海なんぞで死んでるから、人の死が遠く希薄なものになっちまったぞ!テロなんて責任取れないことしてないで切腹してけや!
というわけで自殺をするときは社会にかましていってほしい。自分の死で社会を変えられないときもあるだろう。悔しいがしかし後進の力にはなるはずだ。がんばれ。
村上義光の最期のように切腹して出た腸を投げつけて欲しい
がんばって生きる、からどうせ死ぬんやったらブチかましてやるぜ〜↑↑↑にしたいよね もはや末期の日本、そのノリが今は必要
→↓↘︎大パンチだろ
↑↑↓↓←→←→BA
ありおりはべりいまそかり
残念、ダーウィン賞とかいって笑われるだけなんよ
なんよとかキモ