2012-04-09

春休みが明けて自分の自信の無さに愕然とした

知人と帰りに世間話をした。クロマニヨンズが好きらしく、「へー、ロック好きなんだ」と言おうとして思いとどまる。

自分も邦ロックは割りと好きだ。ナンバガなりシロップなりその他もろもろ、近ごろのには疎いが結構聴いてる方だと思う。

ただ、邦ロックを「ロック」と言い切ってしまうのには抵抗がある。

結論から言ってしまえば、邦楽だろうと洋楽だろうと「ロックやってる」って言うなら「ロック」なんだと思う。「ロック」っていうのは姿勢みたいなもんだろうし。

けれど洋ロックの方がクオリティの高い楽曲が多くて、洋ロック最高邦は糞みたいな、「ロック」っていう「権威」を邦ロックに与えるのは憚られる、という気持ちが自分の中にある。

ナンバガシロップも、紛れも無く「ロック」だとは思うんですよ。でもそれを他人に伝えるのは恥ずかしい。邦ロックしか聴かないような友人にもやはり躊躇われる。

これは一例でしなかない。マンガだって小説だって面白い理由を伝えることができない。議論なんてもっての外だ。自分は定見を何一つ持っていない。

ロックを「ロック」と呼ぶことが躊躇われるのは、定見を持つことで自分が間違うことを恐れているからだ。そして定見を持っている人間を好きな位置からあざ笑うためだ。邦ロック好きに対して「洋ロック最高邦は糞」であることを俺は知っているのだよと、内心ほくそ笑み、安堵するためだ。大して聴きもしないくせに。

定見を持たなければ自らの「無教養さ」を恥じる必要などない。しかし「無教養さ」をひけらかすきっかけもまた定見なのであって、そのためだろう、自分は自ら語り出すことができない。

他人の言葉に相槌をうち、それなりの返事をすることはできるが、自分から話題を提案することは殆ど無い。根は明るい人間であっても、その明るさが発揮されるのは話しかけられてからだ。こうして「話しかけられてはしゃいじゃってるキモオタ」が完成する。

そうした自らの定見を持たない姿勢は、自信にまで波及する。

世の中のわからず屋たちは何故あんなにも無根拠な自信に満ち溢れているのだろうと思っていたが、今になってようやく分かった。彼らには他者から影響されない確固とした信念が、定見が存在していて、それが自信の源なのだと。自信は定見に依存するのだと。筋が通っていなくても彼ら自身は納得しているのな。

俺にとって自信というのはいずれ瓦解してしまものだという諦観がある。物分りの悪い彼らの表面だけを見て「バカな奴らだ」と忌み嫌ってきたのだ。わからず屋になることを恐れたのだ。だから俺は「物分りの良い」定見を持たない人間になった。恥を書きたくないから全てをふんふんと頷いてしまうような人間になった。

賢人というのは物分りがいいが、同時に確固とした信念を持ち合わせているのだろうな。その下にはわからず屋がいて、一番下に俺がいる。

死んじゃうのがかわいそうだからペット飼わないんじゃダメなんだよな。糞のこと考えて寿司は食わないもんな。邦ロックは「ロック」だと言え。マンガの、小説のここが好きで堪らないのだと伝えろ。わからず屋になるのを恐れるな。

そうすりゃ自信もつくだろう。

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