自分が他人と違うということ、自分がどこかのカテゴリに入っているということが、アイデンティティになる。
生まれるときの属性や、生まれたあとにおかれた状況が、アイデンティティをつくる。
「自分は日本人だ」という自認が、外国人との区別になる。性自認が、異性に対する区別になる。
自分が劣っていると思いたくない、劣等への恐怖、死への恐怖が、自分で区別した他者と差別する原因になる。
自分で「違う」と思い込んだ、主観的な区別でしかないのだ。差別はコンプレックスでしかない。劣等感、恐怖なのだ。
人生経験によっても、おかれた立場、役割などによっても、アイデンティティができ、区別ができ、そして、違う立場の者に対する想像力を欠如させる。
立場を捨て、役割を捨て、幅広い経験をし、あるいは偏った経験にとらわれなければ、ひとは解放されて自由になる。
しかしそのとき、よりどころがなくなるから、とりつくしまがなくなるから、多くの人間は、怖れて自認の束縛にひきこもる。
一般に、性自認が無性だったら「障害」だと言われるだろう。あるいは、故郷や母国がないということがどういうことかわかるだろうか。
しかし、そこまでして束縛から解放された者こそ、自由なのである。
なんでそんな理想と現実の両立みたいな たいそうなことになってるんだよ。馬鹿じゃねえの。