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2024-08-04

東浩紀伝3

東は2018年12月18日ツイッターゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、解散は思いとどまる。東は21日付で代表辞任し、上田代表就任する。「ゲンロンに搾取されているという不満」(「ゲンロン戦記」、212頁)を抱いたそうであるゲンロンの代表として会社のために苦労しているにもかかわらず、社員は楽しくやっているように見えるのが不満だったそうだ。理解しにくいところであるが、こういう理由から自分と同じくらいの貢献を社員に求めることになるようである。「ゲンロン戦記」のこの個所は異彩を放っていて、他は笑えるエピソードなのであろうが、ここは笑えないところであろう。代表辞任という重大な局面なので書かざるを得なかったのだろうか。

上田洋子の人生ゲンロンで好転したことは疑いない。博士号取得後燻ぶっていたが、チェルノブイリツアー通訳を引き受けたところ、東に気に入られ、ゲンロンの副代表就任し、それだけでも出世であろうが、東の代表辞任に伴い、代表の座に就くに至った。代表女性ということでフェミ批判をかわせる部分もあるようである2023年日本ロシア文学会大賞を受賞している。東を諫めるべき立場ではあるが、そういうものとしては機能せず、東の発言をひたすら支持している。

2020年新型コロナウイルス(COVID-19)が世界蔓延する。東は断固としてコロナはただの風邪という立場に立った(小林よしのり×三浦瑠麗×東浩紀コロナはしょぼいウイルス世界中で騒いでるのが一番の問題。」【ゲンロン200328】)。田中康夫が切り抜き動画を作っていたのであるが、消されてしまっているようであるアガンベンも生権力批判観点からコロナ対応批判的であったが、コロナは致死率こそそれほど高くないものの、後遺症がひどいので「しょぼいウイルス」とは言えないであろう。

2020年7月黒瀬陽平セクハラが発覚する。東は黒瀬との関係を断つが、これはこの時世であるから仕方ないところであろう。黒瀬は「思想地図vol.1」(2008年)でデビューしており、ゲンロンではカオス*ラウンジ芸術校などもやっていた。

2020年10月19日シラスオープンする。ユーチューブとどう違うのかとも思われるが、その理念は「ゲンロン戦記」第6章第2節で語られている。

2021年キャンセルカルチャーが吹き荒れた年であったが、東京オリンピックでの小山田圭吾炎上が最も目立つ事例であろう。音楽家不祥事新聞の一面トップを飾ったのは小室哲哉逮捕以来ではないだろうか。この件で宮台真司小山田に対して批判的であったが、これに東は反発して、関係を断つ。九〇年代に宮台も露悪系でやっていたのだから小山田の側に立つべきだったというのであるが(「東浩紀無料突発 またどうせ消す」)、これはまっとうな批判であろう。一晩で数百万もの売り上げのあるイベント相手をこのくらいの理由で切れるのだから、東の行動原理は損得にはないということは認めていいのであろう。

2021年4月4日、オープンレター女性差別的な文化を脱するために 研究教育言論メディアにかかわるすべての人へ」が公開されたが、これはキャンセルカルチャーの烽火といっていいものであろう。日文研助教(当時)呉座勇一が武蔵大学准教授(当時)北村紗衣を鍵垢で揶揄していたことを非難するものである東北学院大学准教授小宮友根が書いたらしい。呉座は日文研から准教授への内定を取り消される。同じ年に、立憲民主党衆議院議員本多平直が辞任に追い込まれたりもしており、リベラル連携して動いていることは明らかであろう。キャンセルカルチャーの年表としては、「桐野夏生日没』と2020年代の「大衆検閲」」がある。

2021年9月29日、呉座は日文研提訴したが、これに加えて、2022年2月27日オープンレターの差出人に対して、オープンレターの削除と損害賠償を求める書面を送付し、同年2月25日オープンレターの差出人らが呉座に債務不存在確認訴訟提訴している。2021年12月に、草津町町長女性町議から強制わいせつ容疑で告訴されたのに対して、名誉棄損と虚偽告訴の容疑で女性町議を逆に告訴したりもしていたが、キャンセルカルチャーに対して反撃が始まったという印象であるツイッターでアンフェが気焔を上げていたのであるが、オープンレターは、署名していない人が署名したことになっていたり、差出人に加わることに合意していないのに差出人にされていたり、差出人が五十音順で並べられていなかったりして、杜撰なところが多く、そこを突かれていた。いわゆる法クラの弁護士が加勢したのも大きいのであろう。キャンセルカルチャーの本邦第一号としてモデルケースにするはずだったものと思われるが、躓いてしまった。

この呉座が、シラスチャンネルを開設すると発表される。キャンセルカルチャー犠牲者に助け舟を出したかたちであるが、ここから問題であった。2022年6月、呉座が春木晶子を姫と言ったところ、辻田が咎めたが、呉座は姫の初出は東である反論する。後日、春木は呉座に指摘を感謝し、東にこそ問題があると批判する(5ちゃんねる、東浩紀671の12)。このような経緯で呉座のチャンネルは、契約は未了であったものの、開設されないことになってしまった。また春木チャンネル契約更新を拒まれる。こちらはアップルパイ番組で焼いていたことも問題視された。このことからアップルパイ事件とか五反田ベース事件などと呼ばれることもある。呉座と春木ユーチューブに「春木で呉座います。」というチャンネルを開設した。

悪いことは続くものであるが、今や東のトレードマークともなった「とんこれ」発言が飛び出す。衆議院投票日を二日後に控える2022年7月8日、元総理大臣安倍晋三統一教会に家庭を破壊された過去を持つ山上徹也によって射殺される。7月10日、ニコニコ生放送で「【参院選2022】開票特番三浦瑠麗東浩紀、石戸諭、夏野剛と見守ろう」が放送されるが、中継で社民党福島瑞穂が「それで現在はまだ詳細がわかっておりませんが、統一教会との関係などとも言われております。ですから詳細が明らかになると同時に、もし自民党統一教会応援していることが問題とされたのであれば、まさに自民党統一教会によって大きく影響を受けているということも日本の政治の中で問題になりうると思ってるんですね」などと発言した。中継終了後、東は「あの、これさ……自民党統一教会関係しているからこのようなテロを招いたということを言った?もしかしたら」と述べ、一連のやり取りの中で「これとんでもない話だなぁこれ」との印象深いフレーズが口にされる。福島安倍への銃撃を容認する意図はないと思われるが、そのように曲解したのであろう。しかし、この発言ネタになったのは、味わい深いものがあったからであろう。「五反田式人文パフォーマンスは①唐突で②滑稽で③絶妙にピントが外れていないといけない。極めるのは大変ですよ」(5ちゃんねる、東浩紀スレ817の622)。狙ってやれるものではないように思われる。

2022年10月頃、暇空茜が一般社団法人Colaboの杜撰会計を追求しはじめる。これは2021年後半から始まったキャンセルカルチャーへの反撃のうちで最大のものであった。暇空の活動は、表現を燃やすものを燃やすことでキャンセルカルチャーを終わらせることを目的にしているが、そのために情報公開請求住民監査請求などの合法的手段を用いている(一部デマもあるようだが)。青識亜論のような従来の「表現の自由戦士」は原理を唱えるだけであったが、行動に移したかたちである。東は暇空についてほとんど言及していないが、暇空を支持している宇佐美展也と「都知事選は本当にこれでよかったのか!?」(2024年7月7日)で共演している。

「とんこれ」発言で東の評判はずいぶん落ちたため、それから安全運転を心がけているようであるしかし、安倍が死んだこともあり、検察が息を吹き返した。東京五輪汚職株式会社KADOKAWA会長角川歴彦逮捕起訴され、「とんこれ」発言に同席していた夏野剛が棚ぼたで取締役代表執行役社長CEO就任した。同じく「とんこれ」発言に同席していた三浦瑠璃にはそういうラッキーはなかった。夫(当時)の三浦清志は、建設の見込みがないのに太陽光発電出資を受けたとして、詐欺容疑で告発されていたが、2023年3月7日業務上横領罪で逮捕されたのである(同月27日に起訴)。三浦瑠璃はしばらく活動を休止していたが、2024年4月26日、夫との離婚を発表し、活動を再開した。

辻田真佐憲は、「訂正可能性の哲学」の副読本「訂正する力」(2023年10月)の聞き手構成担当するなど、東の最側近になっていたが、2024年5月31日の「東浩紀突発#136 ただなんとなく雑談」で批判される。「みんな格好つけたいんだろ?俺、自分が格好つけるとか考えない。ゲンロンとシラスのためにめっちゃやってるから!俺シラスを盛り上げようと思ったんだよ。シラサーと一緒に。やってくんないよ!みんな自分チャンネルのことばっか考えてるじゃん!」などの発言があったそうである(5ちゃんねる、東浩紀スレ酒849の290)。「石戸諭×桂大介×東浩紀 ネットで(ついに)社会が変わるのか?」(同年7月18日)でも辻田は批判される。辻田が論壇フェスというイベントに出るのが気に食わないようである。辻田は「【雑談配信東京都知事選後日談中間重要性、論壇フェスほか」(同年7月19日)で反論した。しかし、辻田は売り上げトップであるだけに東も軟化し、辻田がシラスを止めることは今のところないようである

現在に追いついた。これまでのあらすじをまとめると、東は郵便本で確立した視座でずっとやってきたといえるのであろうが、ゼロ年代ネット草創期のコミュニケーションの変容をアーキテクチャから考えていて、この頃がいちばんよかった。個々人は社会から下りていても、社会は回っていくというような夢が語られた。このような夢まで否定されるいわれはないだろう。テン年代になると、SNSによってネット政治的もので満たされるようになり、東はそこから距離を置こうとしてゲンロンに立てこもるようになった。ゼロ年代ネットの勢いに乗っており、その可能性を引き出すべく理論化に励んでいたが、テン年代ネットの動向に批判的になり、アーキテクチャ論も捨ててしまい、時代を作るような存在ではなくなっていった。

時代を作っているのは、左派ウォーキズムであろう。東に近かった人でも、津田藤田こちらに付いていったのであるが、ゼロ年代の東は、環境を変化させることで行動を変える環境管理型権力がこれから権力であり、内面に介入する規律訓練型権力過去のものになりつつあるとしていた。しかし、左派ウォーキズムは明らかに内心に介入しており、先祖返りしている印象である外山恒一キャンセルカルチャーについて「云ってることは新左翼だが、やってることがイジメ」(情況 2022年春号)と言っているが、これにならえば、左派ウォーキズムは、云ってることはフーコーだが、やってることがキリスト教といったところであろうか。しかし、左派ウォーキズムは収まりそうになく、これに対する抗議運動も続くであろう。

展望も記しておくべきなのであろうか。宮台真司は東に健康診断を受けるように勧めていたが、宮台はステージ0のすい臓がん発見しており、しっかりと健康診断を受けているのだろう。東はアル中ではないということらしいが、酒の飲みすぎであることは疑いない。しかし、健康さえ保てれば、今の地位は揺らぎそうもない。思想的な伸びしろは乏しいのかもしれないが、依然としてアイデアマンではあり、あと十数年は売れる本を出せるであろうし、ゲンロンも続けようと思えば続くであろう。

これでこの伝記は終わりであるが、記憶に頼って書いたところも少なくなく、誤りもあるかもしれない。東の埋蔵量は油田のようであり、書き終えられるか不安になったこともあるが、何とか書き終えることができた。これを読んだ人にネット草創期の興奮が少しでも伝われば幸いである。

東浩紀伝2

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会的包摂」(2021年教育雑誌 (57) 31-43)というレビュー論文がある。ロスジェネ論壇も盛り上がった印象はない。氷河期世代はそれどころではなかったのだろうか。雑誌ロスジェネ」は迷走してしまい、第3号は「エロスジェネ」で、第4号で終刊した。

東のゼロ年代ゼロアカ道場で幕を閉じる。東チルドレンを競わせるという企画であり、ゼロアカとは「アカデミズムゼロになる」という意味らしい(「現代日本批評2001-2016」、講談社、101頁)。彼らは東浩紀しか参照していないので、アカデミズムとしてはゼロなのかもしれない。ここで台頭したのが藤田直哉であり、ザクティ革命と称して、飲み会動画を無編集でアップした。ゲンロンのプロトタイプかもしれない。藤田はwokeしたが、東チルドレンでそちらに行ったのは彼くらいではないか

3 ゲンロン

ニコニコ動画に「動ポノムコウ」(2020)というMADがあるが、ゼロ年代の東は輝いていたものの、震災後は落ちぶれてしまったという史観編集されていた。落ちぶれたかどうかはともかく、震災前後に断絶があることは疑いない。東は移動を躊躇わないところがあり、90年代末に批評空間を離れたように、震災後に自らが立ち上げた動ポモ論壇からも離れてしまう。

ゲンロンの前身である合同会社コンテクチュアズ2010年4月6日創業された。2009年の秋の飲み会アイデアが出たそうである宇野常寛濱野智史、浅子佳英(建築家)、李明喜空間デザイナー)との飲み会であった。「ゲンロン戦記」(2020年)では李はXとされているが、ウィキペディアには実名で出てきている。李はコンテクチュアズ代表就任したものの、使い込みを起こして、2011年1月末日付で解任されている。代わって東が代表就任し、李から使い込んだ金を回収した。ちょうど震災前のことで、震災後だと回収は難しかたかもしれないらしい(「ゲンロン戦記」、42頁)。この頃には、宇野や濱野は去っており、浅子が右腕だったが、その浅子も2012年には退任する。

一般意志2.0」は震災前に雑誌「本」に連載されていた。2009年12月から2011年4月号まで連載されていて、4月号は3月頭に出るものなので、ちょうど震災が起こる直前に終わったことになる。「ゲンロン戦記」には「その原稿2010年代に書かれたのですが、出版震災後の2011年11月になりました」(22頁)とあるが、ゼロ年代に連載が始まっているし、出版されたのも2010年代なので、おかしな文である。「震災前に書かれた」と直すべきところであろう。「一般意志2.0」はゼロ年代パラダイムに属している。デジタル民主主義の本であるが、ちょっとひねって、ニコニコ動画のようなもの民意をくみ上げようというものであるゲンロンもニコニコ動画でやられているので、その所信表明でもあるのであろう。ゼロ年代ゲンロンをつなぐ蝶番的な書物ではあった。

サイバースペース」「情報自由論」は一冊の本として刊行されることはなかったのであるが、「一般意志2.0」は刊行された。すっきりとした構想だったからだろうか。東はネット草創期のアングラさのようなものを後光にして輝いていたのであるが、この本を最後に、アーキテクチャを本格的に論じることを止める。ニコニコ動画2ちゃんねる動画版のようなところがあったが、ツイッターをはじめとするSNSネットの中心が移り、ネットはもはや2ちゃん的ではなくなり、東の想定していたアーキテクチャではなくなってきたのかもしれない。東はツイッターも使いこなしているが、かつてほどの存在感はない。

一般意志2.0」の次の主著は「観光客哲学」(2017年であるが、サブカルチャー批評することで「ひとり勝ち」した東が観光客を論じるのは意外性がある。娘が生まれからアニメゲームに関心を失い、その代わり観光が好きになったとのことで、東の関心の移動を反映しているようである。「観光客哲学 増補版」第2章によると、観光客二次創作するオタクに似ている。二次創作するオタク原作の好きなところだけつまみ食いするように、観光客住民暮らしなどお構いなしに無責任観光地をつまみ食いしていく。このように観光客現実二次創作しているそうである

福島第一原発観光地化計画思想地図β vol.4-2)」(2013年)は、一万部も売れなかったそうである。ふざけていると思われたのだろうか。観光に関心を持っていたところに、福島第一原発事故があり、ダークツーリズム対象にできないかと閃いたのであろう。もともと観光に関心がなければ、なかなか出てこないアイデアではないかと思われる。東によると、ダークツーリズム二次創作への抵抗である(「観光客哲学 増補版」第2章)。それなりの歴史のある土地であっても、しょせんは無名なので、原発事故のような惨事が起こると、そのイメージだけで覆い尽くされることになる(二次創作)。しかし、そういう土地観光に出かけると、普通場所であることが分かり、にもかかわらず起こった突然の惨事について思いをはせる機会にもなるそうである二次創作への抵抗)。

社会学者開沼博福島第一原発観光地化計画に参加して、前掲書に寄稿しているのにもかかわらず、これに抗議した。東と開沼は毎日新聞ウェブ版で往復書簡を交わしているが、開沼の主張は「福島イコール原発事故イメージを強化する試みはやめろ」というものであった(「観光客哲学 増補版」第2章)。原発事故を語りにくくすることで忘却を促すというのが政府戦略のようであるが、これは成功した。開沼は2021年東京大学大学院情報学環准教授就任している。原発事故への応答としては、佐藤嘉幸・田口卓臣脱原発哲学」(2016年)もあるが、こちらはほとんど読まれなかった。ジュディス・バトラー佐藤博論(「権力抵抗」)の審査委員の一人であり、佐藤バトラーに近い(竹村和子亡き後、バトラー著作邦訳を担っている)。「脱原発哲学」にもそれっぽい論法が出てくるのが、こちらは功を奏しなかった。資本主義と真っ向から対立するような場面では効かないのだろう。ちなみに佐藤博論には東も登場しており、バトラーも東の名前は知っているものと思われる。

観光客哲学」はネグリハート帝国」を下敷きにしているが、そこでのマルチチュードは、共通性がなくても集まればいいという発想で集められているものであり、否定神学であるとして、郵便マルチチュードとしての観光客対置する。東は原発事故後の市民運動に対して否定的であり、SEALDsなどを毛嫌いしていた。第二次安倍政権は次々と「戦後レジーム」を否定する法案を提出しており、それに対抗する市民運動は盛り上がっていたが、負け続けていた。しかし、Me too運動が始まってからというものリベラルマイノリティ運動に乗り換え、勝ち続けるようになる。「観光客哲学」は市民運動が負け続ける状況に応答しているが、「訂正可能性の哲学」(2023年)はマイノリティ運動が勝ち続ける状況に応答している。小熊英二こたつぬこ木下ちがや)はSEALDsの同伴者であったが、マイノリティ運動に与した共産党には批判である。小熊の「1968」(2009年)は絓秀実革命的なあまり革命的な」(2003年)のマイノリティ運動に対する評価をひっくり返したものなので、こういう対応は分からなくはない。東も「革あ革」を評価していない。「絓さんの本は、ぼくにはよくわからなかった。六八年の革命は失敗ではなく成功だというのだけれど、その理由が明確に示されないまま細かい話が続いていく。どうして六八年革命成功していることになるのか」(「現代日本批評2001-2016」、講談社、71頁)。論旨そのものは分かりやすい本なので、かなりの無理解であろう。

東はアベノミクスには何も言っていない。政治には入れ込んでいるが、経済は分からないので口を出さないという姿勢である経済について分かっていないのに口を出そうとしてリフレ派に行ってしまった人は多い。宮﨑哲弥が典型であろうが、北田もそうであるブレイディみかこ松尾匡と「そろそろ左派は<経済>を語ろう――レフト3.0の政治経済学」(2018年)という対談本を出している。リベラルが負け続けているのは、文化左翼路線だけでは大衆に支持されることはなく、経済についても考える必要があるという主張であるが、リベラルマイノリティ運動で勝ちだしてからはこういうことは言わなくなった。北田2023年から刊行されている「岩波講座 社会学」の編集委員代表を務めている。

観光客哲学」の次の主著は「訂正可能性の哲学であるこちらも郵便本の続編といっていいのであろうが、そこに出てきた訂正可能性(コレクタビリティ)という概念がフィーチャーされている。政治的な正しさ(ポリティカル・コレクトネス)を奉じている者がそうしているように、理想を固定したものとして考えるのではなく、誤りをコレクトするという姿勢大事であるということらしい。駄洒落のようであると言われることもある。森脇によると、東は状況に合わせてありきたりの概念意味を変えるという「再発明」の戦略を採っているが、この「再発明」の戦略を言い換えたものが訂正可能なのだという(森脇「東浩紀批評アクティヴィズムについて」)。そうだとすると、訂正可能性は郵便本では脇役であったが、これが四半世紀後に主役になることには必然性があったということであろうか。

こうして現在2024年7月)まで辿りついたのであるが、東は多くの人と関係を断ってきたため、周りに人がいなくなっている。東も自身気質自覚している。「ぼくはいつも自分で始めた仕事自分で壊してしまう。親しい友人も自罰的に切ってしまう。「自己解体境界侵犯欲望」が制御できなくなってしまう。だからぼくには五年以上付き合っている友人がいない。本当にいないのだ」(東浩紀桜坂洋キャラクターズ」、2008年、73頁)。一人称小説の語り手の言葉であるものの、現実の東と遠からものと見ていいであろう。ここからは東の決裂を振り返る。

宇野常寛は東を批判して「ゼロ年代の想像力」(2008年)でデビューしたのであるが、東に接近してきた。ゲンロンは宇野のような東に近い若手論客結集する場として企画されたそうである。東によると、宇野を切ったのは、映画「AZM48」の権利宇野要求してきたかららしい。「東浩紀氏の告白・・・AZM48をめぐるトラブルの裏側」というtogetterに東のツイートが集められている。2011年3月10日から11日を跨ぐ時間帯に投稿されたものであり、まさに震災直前である。「AZM48」は「コンテクチュアズ友の会」の会報「しそちず!」に宇野が連載した小説である映画原作なのだろう)が、宇野ウィキペディアには書かれていない(2024年7月27日閲覧)。円堂都司昭は「ゼロ年代論点」(2011年)の終章で「AZM48」を論じようと企画していたが、止めておいたそうである。「ゼロ年代批評をふり返った本の終章なのだから2010年代を多少なりとも展望してみましょうというパートなわけだ。批評家たちのホモパロディを熱く語ってどうする。そこに未来はあるのか?」(「『ゼロ年代論点』に書かなかった幻の「AZM48」論」)。

濱野智史は「アーキテクチャ生態系」(2008年)でデビューしているが、アーキテクチャ論こそ「「ゼロ年代批評」の可能性の中心」(森脇、前掲論文)であった。東の右腕的存在だったこともあり、「ised情報社会倫理設計」を東と共編している。濱野は東と決裂したというより、壊れてしまった。その頃、AKB48などのアイドル流行りつつあり、宇野は、東をレイプファンタジーなどと批判していたのにもかかわらず、アイドル評論を始めたのであるが、濱野もそちらに付いていってしまった。「前田敦子はキリストを超えた 宗教としてのAKB48」(2012年)を刊行する。これだけならよかったものの、アーキテクチャ論を実践すべく、2014年アイドルグループPlatonics Idol Platform (PIP)をプロデュースするも大失敗してしまい、精神を病んでしまった。行方が分からなくなっていたが、「『豪の部屋』濱野智史社会学者)が経験したアイドルプロデュース真相」(2022年)に出演して、東に「ぐうパワハラされた」ことを明かした。

千葉雅也の博論本「動きすぎてはいけない」(2013年)には、浅田彰東浩紀が帯を書いていて、「構造と力」や「存在論的、郵便的」を承継する構えを見せていた。郵便本をきちんと咀嚼した希な例ということらしい。東がイベント千葉ゲイであることをアウティングしたのであるが、その場では千葉は黙っていたものの、「怒っている。」などとツイートする(2019年3月7日、「男性性に疲れた東浩紀何をいまさらと怒る千葉雅也」)。これに反応して、東は「千葉との本は出さないことにした。仕事も二度としない。彼は僕の人生全否定した」などと生放送で二時間ほど怒涛の千葉批判を行った。こうして縁が切れたわけであるが、千葉くらいは残しておいても良かったのではないかと思われる。國分は数年に一度ゲンロンに登壇するようであるが、このくらいの関係でないと続かないということだろうか。

大澤聡も切ったらしいのであるが、「東浩紀突発#110 大澤聡さんが5年ぶりにキタ!」(2023年10月16日)で再会している。どうして切ったのかはもはやよく分からないが、それほどの遺恨はなかったのだろう。

福嶋亮大は向こうから去って行ったらしい。鼎談現代日本批評」の第1回、第2回に参加しながら、第3回に参加することを拒んだらしい。東も理由はよく分からないようである。珍しいケースといえよう。

津田大介とは「あずまんのつだっち大好き・2018年猛暑の巻」(2018年8月17日)というイベントが開催されるほど仲が良かった。津田2017年7月17日にアイチトリエンナーレ2019の芸術監督就任し、東は2017年10月企画アドバイザー就任する。しかし、企画展「表現不自由展・その後」に政治的圧力が加えられ、2019年8月14日、東は企画アドバイザーを辞任する。この辞任はリベラルから顰蹙を買い、東はますますリベラル嫌いになっていく。批評家は大衆に寄り添わざるを得ないので、こういう判断もあり得るのだろうか。

東は2018年12月18日にツイッターゲンロン解散を発表するが、上田洋子らに説得されて、

東浩紀

東浩紀の伝記を書く。ゼロ年代に二十代を過ごした私たちにとって、東浩紀特別存在であった。これは今の若い人には分からいであろう。経験していないとネット草創期の興奮はおそらく分からいかである。たしかにその頃は就職状況が悪かったのであるが、それはまた別にインターネットは楽しかったのであり、インターネットが全てを変えていくだろうという夢があった。ゼロ年代代表する人物を3人挙げるとすれば、東浩紀堀江貴文ホリエモン)、西村博之ひろゆき)ということになりそうであるが、彼らはネット草創期に大暴れした面々である。今の若い人たちはデジタルネイティブであり、それこそ赤ちゃんの頃からスマホを触っているそうであるが、我々の小さい頃にはスマホはおろか携帯電話すらなかったのであるファミコンはあったが。今の若い人たちにはネットがない状況など想像もできないだろう。

私は東浩紀の主著は読んでいるものの、書いたもの網羅的に読んでいるというほどではなく、酔っ払い配信ほとんど見ていない。しかし、2ちゃんねる(5ちゃんねる)の東浩紀スレ古参ではあり、ゴシップ的なことはよく知っているつもりである。そういう立場から彼の伝記を書いていきたいと思う。

1 批評空間

東浩紀は71年5月9日まれである。「動ポモ」でも援用されている見田宗介時代区分だと、虚構時代のちょうど入り口で生を享けたことになる。國分功一郎は74年、千葉雅也は78年生まれである。國分とはたった3歳しか離れていないが、東が早々にデビューしたために、彼らとはもっと年が離れていると錯覚してしまう。

東は中流家庭に生まれたらしい。三鷹市から横浜市引っ越した。東には妹がおり、医療従事者らしい(医者ではない)。父親金沢出身で、金沢二水高校を出ているそうである(【政治番組東浩紀×津田大介×夏野剛×三浦瑠麗が「内閣改造」について大盛り上がり!「今の左翼新左翼左翼よりバカ!」【真実幻想と】)。

東は日能研でさっそく頭角を現す。模試で全国一桁にいきなり入った(らしい)。特別栄冠を得た(らしい)。これに比べたら、大学予備校模試でどうとかいうのは、どうでもいいことであろう。

筑駒筑波大学附属駒場中学校)に進学する。筑駒在学中の特筆すべきエピソードとしては、おニャン子クラブ高井麻巳子福井県実家訪問したことであろうか。秋元康結婚したのは高井であり、東の目の高さが分かるであろう。また、東は中学生時代うる星やつらファンクラブを立ち上げたが、舐められるのがイヤで年を誤魔化していたところ、それを言い出せずに逃げ出したらしい(5ちゃんねる、東浩紀スレ722の555)。

もう一つエピソードがあって、昭和天皇が死んだときに、記帳に訪れたらしい。

東は東大文一に入学する。文三ではないことに注意されたい。そこで柄谷行人の講演を聞きに行って何か質問をしたところ、後で会おうと言われ、「批評空間」に弱冠21歳でデビューする。「ソルジェニーツィン試論」(1993年4月であるソルジェニーツィンなどよく読んでいたなと思うが、新潮文庫ノーベル賞作家を潰していくという読書計画だったらしい。また、残虐記のようなのがけっこう好きで、よく読んでいたというのもある。三里塚闘争についても関心があったようだ。「ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ」(「存在論的、郵便的」)という問題意識で書かれている。ルーマン用語でいえば、偶発性(別様であり得ること)の問題であろうか。

東は、教養課程では、佐藤誠三郎ゼミ所属していた。佐藤村上泰亮公文俊平とともに「文明としてのイエ社会」(1979年)を出している。共著者のうち公文俊平だけは現在2024年7月)も存命であるが、ゼロ年代に東は公文グロコムで同僚となる。「文明としてのイエ社会」は「思想地図」第1号で言及されており、浩瀚な本なので本当に読んだのだろうかと思ったものであるが、佐藤ゼミ所属していたこから学部時代に読んだのだろう。

東は94年3月東京大学教養学部教養学科科学史科学哲学分科を卒業し、同4月東京大学大学総合文化研究科超域文化科学専攻に進学する。修士論文バフチンで書いたらしい。博士論文ではデリダを扱っている。批評空間に94年から97年にかけて連載したものをまとめたものである私たち世代は三読くらいしたものである博論本「存在論的、郵便的」は98年に出た。浅田彰が「東浩紀との出会いは新鮮な驚きだった。(・・・)その驚きとともに私は『構造と力』がとうとう完全に過去のものとなったことを認めたのである」という帯文を書いていた。

郵便本の内容はウィキペディアの要約が分かりやすく、ツイッター清水高志が褒めていた。「25年後の東浩紀」(2024年)という本が出て、この本の第3部に、森脇透青と小川歩人による90ページにわたる要約が付いている。森脇は東の後継者と一部で目されている。

東の若いころの友達阿部和重がいる。阿部ゲンロンの当初からの会員だったらしい。妻の川上未映子は「ゲンロン15」(2023年)に「春に思っていたこと」というエッセイ寄稿している。川上早稲田文学市川真人によって見出されたらしく、市川渡辺直己の直弟子である市川鼎談現代日本批評」にも参加している。

東は、翻訳家小鷹信光の娘で、作家ほしおさなえ1964年まれ)と結婚した。7歳年上である不倫だったらしい。98年2月には同棲していたとウィキペディアには書かれていたのであるが、いつのまにか98年に学生結婚と書かれていた。辻田真佐憲によるインタビュー東浩紀批評家が中小企業経営するということ」 アップリンク問題はなぜ起きたか」(2020年)で「それは結婚の年でもあります」と言っており、そこが根拠かもしれないが、明示されているわけではない。

そして娘の汐音ちゃん生まれる。汐音ちゃん2005年6月6日まれであるウィキペディアには午後1時半ごろと、生まれ時間まで書かれている。名前クラナドの「汐」と胎児聴診器心音ちゃんから取ったらしい。ツイッターアイコンに汐音ちゃん写真を使っていたものの、フェミに叩かれ、自分写真に代えた。汐音ちゃんは「よいこのための吾妻ひでお」 (2012年)のカバーを飾っている。「日本科学未来館世界の終わりのものがたり」展に潜入 "The End of the World - 73 Questions We Must Answer"」(2012年6月9日)では7歳になったばかりの汐音ちゃんが見られる。

96年、コロンビア大学大学入試に、柄谷の推薦状があったのにもかかわらず落ちている。フラタニティ的な評価によるものではないかと、どこかで東は推測していた。入試について東はこう言っている。「入試残酷なのは、それが受験生合格不合格に振り分けるからなのではない。ほんとうに残酷なのは、それが、数年にわたって、受験生家族に対し「おまえの未来合格不合格かどちらかだ」と単純な対立を押しつけてくることにあるのだ」(「選択肢無限である」、「ゆるく考える」所収)。いかにも東らしい発想といえよう。

2 ゼロ年代

東の次の主著は「動物化するポストモダン」で、これは2001年刊行される。98年から01年という3年の間に、急旋回を遂げたことになる。「サイバースペースはなぜそう呼ばれるか」はその間の論考である

東はエヴァに嵌っており、「庵野秀明はいかにして八〇年代日本アニメを終わらせたか」(1996年)などのエヴァ論も書いている。その頃に書いたエッセイは「郵便不安たち」(1999年)に収められた。エヴァ本をデビュー作にすることも考えたらしいが、浅田彰に止められたらしい。だからサブカル本を出すというのは、最初から頭の中にあったのだろう。

「いま批評場所はどこにあるのか」(批評空間第Ⅱ期第21号、1999年3月)というシンポジウムを経て、東は批評空間と決裂するが、それについて25年後に次のように総括している。「ぼくが考える哲学が『批評空間』にはないと思ってしまった。でも感情的には移転があるから、「お前はバカだ」と非難されるような状態にならないと関係が切れない」(「25年後の東浩紀」、224-5頁)。

動ポモ10万部くらい売れたらしいが、まさに時代を切り拓く書物であった。10万部というのは大した部数ではないようにも思われるかもしれないが、ここから動ポモ論壇」が立ち上がったのであり、観客の数としては10万もいれば十分なのであろう。動ポモフェミニストには評判が悪いようである北村紗衣も東のことが嫌いらしい。動ポモ英訳されている(Otaku: Japan's Database Animals, Univ Of Minnesota Press. 2009)。「一般意志2.0」「観光客哲学」も英訳されているが、アマゾンのglobal ratingsの数は動ポモが60、「一般意志2.0」が4つ、「観光客哲学」が3つと動ポモが圧倒的である2024年8月3日閲覧)。動ポモ海外論文でもよく引用されているらしい。

次の主著であるゲーム的リアリズムの誕生――動物化するポストモダン2」までは6年空き、2007年に出た。この間、東は「情報自由論」も書いていたが、監視否定する立場から肯定する立場へと、途中で考えが変わったこともあり、単著としては出さず、「サイバースペース」と抱き合わせで、同じく2007年に発売される(「情報環境論集―東浩紀コレクションS」)。「サイバースペース」は「東浩紀アーカイブス2」(2011年)として文庫化されるが、「情報自由論」はここでしか読めない。「サイバースペース」と「情報自由論」はどちらも評価が高く、この頃の東は多作であった。

この頃は北田暁大と仲が良かった。北田は東と同じく1971年まれである。東と北田は、2008年から2010年にかけて「思想地図」を共編でNHK出版から出すが、3号あたりで方針が合わなくなり、5号で終わる。北田は「思想地図β」1号(2010年)の鼎談には出てきたものの、今はもう交流はないようである北田はかつてツイッターで活発に活動していたが、今はやっていない。ユミソンという人(本名らしい)からセクハラ告発されたこともあるが、不発に終わったようである結婚して子供もできて幸せらしい。

その頃は2ちゃんねるネットの中心であったが、北田は「嗤う日本の「ナショナリズム」」(2006年)で2ちゃん俎上に載せている。北田は「広告都市東京」(2002年)で「つながりの社会性」という概念を出していたが、コミュニケーションの中身よりも、コミュニケーション接続していくことに意味があるというような事態を表していた。この概念を応用し、2ちゃんでは際どいことが言われているが、それはネタなので心配しなくていいというようなことが書かれていた。2ちゃん分析古典ではある。

東は宮台真司大澤真幸とも付き合っているが、彼らは北田のように鋭くゼロ年代を観察したというわけではなく、先行文献の著者である。宮台は98年にフィールドワークを止めてからは、研究者というよりは評論家になってしまった。大澤は日本ジジェクと称されるが、何を論じても同じなのもジジェクと同様である動ポモは彼らの議論を整理して更新しているのであるが、動ポモも「ゲーム的リアリズムの誕生」も、実際に下敷きになっているのは大塚英志であろう。

宮台や大澤や北田はいずれもルーマンであるが、ルーマンっぽいことを言っているだけという印象で、東とルーマンも似ているところもあるというくらいだろう。しかし、ルーマン研究者馬場靖雄2021年逝去)は批評空間に連載されていた頃から存在論的、郵便的」に注目しており、早くも論文正義門前」(1996)で言及していた。最初期の言及ではないだろうか。主著「ルーマン社会理論」(2001)には東は出てこないが、主著と同年刊の編著「反=理論のアクチュアリティー」(2001)所収の「二つの批評、二つの社会」」ではルーマンと東が並べて論じられている。

佐々木敦ニッポン思想」(2009年)によると、ゼロ年代思想は東の「ひとり勝ち」であった。額縁批評などと揶揄される佐々木ではあるが、堅実にまとまっている。類書としては、仲正昌樹「集中講義日本現代思想 ポストモダンとは何だったのか」 (2006)や本上まもる「 “ポストモダンとは何だったのか―1983‐2007」 (2007)があったが、仲正は今でも読まれているようである。本上は忘れられているのではないか。この手の本はこれ以後出ていない。需要がないのだろうか。

佐々木の「ひとり勝ち」判定であるが、そもそもゼロ年代思想土俵を作ったのは動ポモであり、そこで東が勝つというのは当たり前のことであった。いわゆる東チルドレンは東の手のひらで踊っていただけなのかもしれない。懐かしい人たちではある。

北田によると、東の「情報技術公共性をめぐる近年の議論」は、「批評が、社会科学的な知――局所から全体を推測する手続きを重視する言説群――を媒介せずに、技術工学的知と直結した形で存在する可能性の模索である」(「社会批評Introduction」、「思想地図vol.5」、81-2頁)ということであるが、ゼロ年代の東はこういう道を歩んでいた。キットラーに似ており、東チルドレンでは濱野智史がこの道を歩んだのであるが、東チルドレンが全てそうだったわけでもなく、社会学でサブカルを語るというような緩い営みに終始していた。宇野常寛などはまさにこれであろう。

佐々木ニッポン思想」と同じ2009年7月に、毛利嘉孝ストリート思想」が出ている。文化左翼歴史をたどっているのであるが、この頃はまだ大人しかった。ポスコロ・カルスタなどと揶揄されていた。しかし、テン年代佐々木命名から勢いが増していき、今や大学メディア大企業裁判所を押さえるに至っている。しかし、ゼロ年代において、動ポモ論壇と比較できるのは、非モテ論壇やロスジェネ論壇であろう。

非モテ論壇は、小谷野敦の「もてない男」 (1999年)に始まり本田透に引き継がれるが、ものすごく盛り上がっているというほどでもなかった。本田消息が分からなくなり、小谷野2017年から売れなくなった。ツイッターでは雁琳のような第三波フェミニズムに応対できる論者が主流となっているが、そういうのの影に隠れたかたちであろう。大場博幸「非モテ独身男性をめぐる言説史とその社会包摂」(2021年教育Permalink | 記事への反応(13) | 17:44

2018-09-30

anond:20180930183600

最近は、上から指導など真っ平御免と言う感じだし、無理っぽいな。

 

社会環境管理型権力(店の椅子の硬さで、回転率調整するとか)で人々をコントロールする形になってきた。

もはや、家畜誘導に近い。

 

フツーの生活したいだけとか言って内実は強欲な一般人

まぁわかるんだが、中産階級マジョリティの中だけにいると、そう言う人格が出来上がるようになっていると思う。

そこら辺ある程度啓蒙するのがエリート仕事だと思うが、もう放置気味で、資本主義的に便利な人間が量産されるシステムになっている。

2017-05-16

まあ環境管理型権力論者は環境と法を変えるだけで一発で痴漢撲滅へ導けると自負するようだが

2008-04-19

弁当先生

環境管理型権力を使い、みごと成功するの巻

伊達に長くネットやってねーな…

 
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