はてなキーワード: 中古とは
っていうのをさ、私もあなたも他の女増田たちも何度も何度も書いてるのに
それでも処女厨ってのは「俺はお前たち処女を高く評価してやってるんだからありがたく思え」なんだよねー。
「非処女は中古」って言えば処女が「そうか、私は新品だから価値が高いんだわ!うれしい!!抱いて!!」って言う妄想にでも囚われてるのかなぁ。
つまり、中古より新品のほうが良いよね
ここは同意
だが、
中古のくせに偉そうに書き込むなってことさ
これは同意しかねる。
理由もへったくれもないじゃないか、そんなの。
というのは非常に理解できる。同意できる。
だからこそ、「中古のくせに偉そうに」とも思わない。
だって、中古「のくせに」とか「偉そうに」って思わないだろ?
中古がどう言おうが、新品がどう言おうが、
どっちが偉そうにしてようが、関係ない。
ただ単純に新品のほうが良い、それだけだから。
処女厨がどうこうってのももう見飽きた。
どうカテゴライズされようが、新品が良いという絶対的な価値観を定義づけなんてできない。
する必要もない。
良いもんは良い。
そんだけだ。
http://anond.hatelabo.jp/20081215162915
つーかあのまま仁とナギがめでたく合体☆してたらその方が処女厨ヲタどもは大騒ぎだっただろうに。
あと貫通したかどうかなんて描写は一切ないからね。
処女非処女の話で「新車と中古車だったら新車の方がいいだろ?」な例え話になってるけど
処女厨は非処女を忌み嫌ってるのをよく目にするけど中古車を忌み嫌うドライバーって聞いたことがない。
「俺は他人の手の垢の付いた中古車なんぞ絶対乗らん!!」
「どんな高級車だろうが他人が一度乗ったらそれはガラクタだ!鉄クズだ!」
って言ってる感じ。やっぱり変だよ。
何がもやもやするって、私は何がショックかって
男の変な意地が見えるのがきついんだ。
過去にあった恋愛とか、そこに至る紆余曲折とか、そういうのを一切無視したただの所有欲が。
自分が付き合ってもいないその辺の男が女の体のごく一部(膣ですらなく、処女膜)にこだわっているのを聞いて欝になる、
もっと言えば、隣にいる彼氏かもしれない男が、自分の知らないところで、
非処女を「中古」「ビッチ」と罵っていたんだ、もし処女厨であったなら。
http://anond.hatelabo.jp/20081215203659
分かってる・・・・と思うんだけど。
処女と非処女の優劣を議論するときに、中古車と新車という表現を持ってくること自体が単なる比喩表現で
この議論に対する普遍性を持ちえないって言ってるんだけどそれはお分かりでしょうか。
http://anond.hatelabo.jp/20081215203809
それは否定したじゃん。
二次元処女厨にとっては作品の中のラブコメ要素そのものが排除すべき対象なんじゃないか?
もうほとんど女キャラしか出てこないような作品しか読まなければいいのに、と思う。
頼むからそうやって住み分けてくれと。
すまんが中古騒動ってなんなんだ
“今回の騒動の根底にあった嘆き”は、時代を問わず『物語』と『読み手』があれば必ずそこに生じ得る嘆きだと思う。『物語』の背後に『作者』を見るなら、彼(女)を恨むというのは常識にも理解できはする。なーんか変な点があるとすれば、「その嘆きを持ち得るほどには熱心である筈の読み手が、その嘆きと格闘することにはあまり熱心じゃない」ということだろうか。しかしそれも子供にはよくあることだが……。
当然、読み手が熱心であったのは『物語』に対してではなく、『キャラクター』に対してだったとかは言える。けど、言われているとおり、“ナギは『かんなぎ』の中にしかいない”。つまりナギ中古を問題にする人は、“神聖な嘘”である『物語』にあればこその固有性を、そのキャラクターに見ている。かなり見ている。言い換えれば、ナギに熱心である(あった)人は、なんだかんだ言って『かんなぎ』という運命を受け入れてしまっている。そこに固執するが故に作者を恨んでしまう。
その恨みが子供っぽいのは、自ら受け入れる運命的な物語を、ちょっとの火傷で拒否してしまうその忍耐の無さにある*1。耐える価値が無いなら物語を捨てれば良いし、物語が捨てられないなら耐えれば良い。
この堪え性の無さを、誰か(たとえば消費社会とか)に押し付けられたものとして正当化することは、もっと気持ち悪い。
*1追記。「拒否」はしつつも拒みきれてない状態(受け入れてる前提があるから)に、堪え性がないということ。
追記2。ブクマより。
「いやなら読むな」と「読者には批判する自由がある」って一見、背反しているように見える。
背反してると思います。で、「いやなら読むな」の方が言説としてタチが悪いとも思います。
「批判するな」ってのは「無批判的に享受しろ」ってことで、上に倣えば「一旦受け入れた運命を全うせよ」ということ。けれど『読者』の『作者』に対する批判ってのは、普通、この『物語=運命』から超越的な立場の者同士として、批判することを意味してる。つまりこの意味で「いやなら読むな」は、「『物語=運命』を超越するな」であって、このおかしさは説明するまでもないと思う。
しかし上に見たように、<批判>している人も実際は『物語=運命』の内に留まってアレコレ言っているに過ぎない。それは批判ではなくて文句。したがって「なぜオタクは批判ではなく文句を言ってしまうのか」の説明として“神聖な嘘”を持ち出して消費社会を「批判」することができたとしても、“今回の騒動の根底にあった嘆き”が作者に対する「文句」であることに変わりはないよ、ということ。
そういう文脈で言えば、上記「耐える価値が無いなら物語を捨てれば良いし、物語が捨てられないなら耐えれば良い」は、「いやなら読むな、さもなくば耐えろ」ではなくて、「いやなら文句言ってないで批判しろ、その価値もないなら捨てろ」となる。
とにかく、文句しか言えない己を自覚するのが先決なんじゃ……という気持ちで書いたのでした。