はてなキーワード: 不定形とは
小便の切れが悪い。
残尿感とか言うほど大袈裟なものではないのだが、んー…果たしてコレって残らず排出されたと見てよいものか。という懸念というか、不明瞭な感じがいつもある。
そこで便器の前で排尿が終わった後の時間を長く取り、微妙に屈伸運動をしたりつま先立ちを繰り返したりして、これで完全に排泄されたのだという爽快が訪れるのをいちおう待ってみる。けどもう長らくその爽快は味わっていないようだ。仕方なくしまい込む。やれやれと立ち去る。この一連の儀式は我ながらなかなかに哀しくて間の抜けた絵面である。とてもよろしい。
それはそれとして、この不甲斐なさが一体いつ頃からのことなのか今ひとつはっきりしないのである。子供の頃は小便を終えた後、もっとすっきりした感じがあったような気はしている。けど意外にそうでもなく、すっきりしてなかろうが格納した後に垂れ流そうが子供特有の無頓着で意に介さなかっただけという話もありそうである。長じて快便を体調良好のバロメータとする意識を持つようになったせいで、不健康や衰えとは無縁であったはずの子供時代を美化しすぎているのかもしれない。「昔は良かった」は容易に陥る思考の陥穽だ…って、要は記憶を辿ってもよく分からないということが言いたいのである。
似た話で起き抜けなどに鏡を覗くと、そこにある皺にふと違和感を覚える時がある。あれ、こんな所に皺などあったっけ?という疑問が浮かぶのである。寝相の関係で圧迫されてできた皺が一時的なクセになるのはよくある事だけど、そうではなくて明らかに顔の一部となっている。すると昨日今日でホイホイできたとは考えにくい。ということはむろん前からあったものなのだという結論になる。けれどそれが一体いつ頃からそこにあったのか、今ひとつはっきりしない。
どうも近ごろ、私にとっての過去というものが加速度的に曖昧でおぼろなものになってゆくようでそこはかとなく恐ろしい。これはあったはずの出来事を忘れてしまうというだけの話では収まらない。
それまで「当たり前」どころか「前提」ぐらいにすら思っていた、私なりの物の見方や感じ方。そういう、いわば私の存在の中核となっていたもの、「私はこういう人間だ」と規定していたもののかたちでさえ次第に風化して崩れていっているように思われてならないということである。私という人間の輪郭が段々とぼやけていっているということである。
大きな喪失を感じるのが、そのときどきで抱いた感情や内的体験の味とか匂いのような質感が失われてゆくことである。幼児の頃の私は、なんでもないような絵や光景によくメルヘンな気分を味わった。子供の頃には、些細な風景写真や映画によく世界の広大さそのものへの憧憬の念のような感情が湧き起こった。
気恥ずかしいが、そういう「ときめき」がどんな感じであったか、さかしらに言えばときめきのクオリアとでも呼ぶべきものが思い出せない。ごくたまに、なにかの偶然がトリガーとなって自分の中によみがえる(匂いがきっかけとなることが多い)ことがあるまで、そんなものがあったことすら忘れてしまっているのである。けど私にとって、そういうものこそが生の実感であったはずのものだった。どうも今の私は魂を抜かれた抜け殻が生きているかのようである。
ご存知のとおり、人の肉体は固定されたものに見えて実は流動的である。代謝によって肉体を構成する物質が絶えず入れ替わり、我々がふだん石や木材のような固体のイメージで捉えている骨でさえ骨代謝という働きにより成人3年で完全に入れ替わる。言い換えれば3年前の私と今の私は正真正銘別物である。生命とはモノではなく、コトなのであって、渦とか波とかの現象と質的に同じなのである。こういう話を聞くにつけその確かな拠り所の無さ、脆さ儚さを思わずにはいられない。うたかたに例えた古人はまことに正しい。
まして人間の精神のような無形のものの流転の様は推して知るべしなのである。「私はいつだって私だ」というのは単純に言ってただの錯覚で、絶えずアメーバのように形を変えているイメージがより近いと私は思う。自分では一定の形を保っているように思っていながら、そのじつ絶えずなにかが流出し、知らずになにかが流入し続けているのである。朱に交われば赤くなるのだ。
下り坂の年齢にあると、その流出してしまったものの大きさのほうが堪える事実である。流入してくるものも無くはなかろうがどうも良いものには思われない。
非モテっつうのは大雑把に二種類に分けられると前から思っていました。
「漫画型の非モテ」はみなさんも子供の頃からフィクションで繰り返し刷り込まれてきた、
モテなくて、善良で、情熱があって、女性にちょっと優しくされたらすぐ好きになって
基本的に女性を崇拝してるというか信じ込んでるようなところがある。
誰からも愛される間抜け。幸せ。
「はてな型の非モテ」は皆さんが日頃からここやネットでよく目にしているアレ、
モテなくて、邪悪で、懐疑的で、女性の行動の功利的動機を見抜くのが大好きで、
基本的に女性を嫌悪してるというか憎んでるようなところがある。
誰からも愛されにくい根性曲がり。不幸せ。
今日、「漫画型非モテ」が殺された事件がニュースになっています。
彼は模型製作界隈で名の知られた41歳会社員で、結婚詐欺女に自殺に見せかけて殺されました。
少しはしゃぐような調子の無邪気な結婚報告とこれからの希望が書かれていました。
まるっきり完璧にペロリと騙されているんですよ。(それで何で殺すのか分からんけど)
そんな自分にすり寄ってくる女性に怪しさを感じる程度の理性や客観性も持ち合わせなければ
発作的に懐疑と憎しみを向ける程度のミソジニーも養っていなかった彼は
間違いなく善良な人でした。漫画に出てくる間抜けみたいに。
で、なんで今時こんな人がまだ居るんだろう。
なんでズバリと凶悪結婚詐欺が見つけ出して無意味に殺すんだろう。
なんかアジアの漁村で貴重な古代魚を水揚げするもそのまま食っちまったってニュースを思い出した。
そしてやっぱり善良さで幸せ掴むってのは無理なんだね。
完全に横なんだが、草食系男子というのはとりあえずおいといて
●彼女に細やかな気遣いができる。
●彼女だけを一途に愛することができる。
●彼女の髪型が変わったことにすぐ気付き、誉めることができる。
●彼女の起承転結がない面白くない話を、うなずきながら聞くことができる。
●彼女がセクロスを拒んでも、「この子は昔セクロスで嫌な思いをしたことがあるのかもしれないな。何も言わずに優しく抱きしめてあげよう。」と、勃起したチンコを挿入できずとも我慢することができる。
女が求める…?像…?ときたまもてるためにはこういうことをしろといってる男性がいたりしますが、いつも疑問。なんか絶対裏がありそうだよなーと個人的には思ってしまう。
うーん…別になぁ。お互いに不快にならないためのもしくはどちらかが一方的に苦しんだりしないような当たり前の気遣いというのはあってしかるべきとは思いますが、細やかな?
逆に「これされたらうれしいんだろ」「こういう細かいところに目が届く俺ってかっこいい」という意識が透けて見えると興ざめというか不快。気遣いって結局のところお互いに今二人が共有している空気というのの居心地よさを最大化するためにすることだから、こうだからこうなるなんてことはないし、そこに細やかとか細やかじゃないとかあるのかな。どっちかだけが気遣いしてて最大化されるのかな。しないよなぁ。
一途が何かは知らんが当たり前のことじゃないのかなぁ。いちいちあげることか。浮気は言語道断。
なぜ髪型限定なのかよくわからないけど、きづかなきゃーほめなきゃー!という態度は嫌だろう…というかいちいち髪切ったくらいであれこれいわれたいのかなぁ。失敗したときとかどうするんだ。やべー失敗したー絶対やべーと思ってるのに心にもない「それいいね!似合うよ!」
撲殺ですね。
え?ひたすらしゃべりたいの?そんなにしゃべりたいの?なんで?会話じゃなくね?演説がしたいの?そういうことなの?
これいつもなぞなんだけど、会話って適当な種放り込んでそこからありもしない芽をはやしたりとんでもない方向へ枝を伸ばしたり、突然切ってみてそこから何が生えてくるかその場の空気と流れに合わせて一意には定まらない不定形のものを共有するのが楽しいんじゃないのかなぁ。だからお互いがしゃべるし話題にこだわることもないし、どんどん話が変わって言っても突然戻っても結論があってもなくても起承転結があってもなくても楽しければそれでいいんじゃないのか。雑談ってそういうものじゃないのか。男女限らずだけど一方的にしゃべりたい欲がある人って不思議だなぁと思う。
これは当たり前。草食系とかなんとかじゃなくても労われと。軽い人ならほっとけと。苛々とかなくても毎回でなくても腹痛・貧血・低血圧・頭痛あたりはあるものだから、無理は出来ないししたくないし、トイレ行けないとかだいぶきついしな。いきたいときにトイレに行けること、冷えないこと、疲れないこと、すぐ座ったり休んだりできること、水分の摂取がいつでもできること程度の労わりでいいんだけど、わかってない人は多いよなー。大丈夫?ってきくことが労りじゃないですからね。
いやーいちいち昔嫌な思いをうんぬんかんぬんとか想像されたらやだわw単に気分が乗らないとか微妙に腹が痛くて裸になると波が来るかもとか、無駄毛の処理をしてきてないとか、下着が微妙だったやばいとかそういう理由かもしらんのでね。まぁそこらへんは臨機応変に対応したいものです。嫌って言ってるけど本当は…ということがあったりなかったりするから始末悪いよなーどうにかならないものかね。本当に嫌なときに迫られたら殺意沸くだろうけれど。まぁこの辺は難しいところですな。よくわからん。
私はどこへ行きたいんだ。私は何がしたいんだ。「いまならできそう」と「もう駄目そう」が交互にやってきて乱暴に背中を押していく。目の前は、ときに深い海、ときに渇いた砂の山、ときに柔らかい温かい肉、ときに白いおまんじゅうが漠然と広がり、それはいつも不定形で変化し続ける。私は安定を知らぬまま、「どこ見てるかわかんない」目で何もないところを見ている。何も見ないように目をあけておく。
私は突っ立ったまま、いつも、どこへも行けない。いまなら行けそうだという追い風に乗れたらいいのに。その勢いに任せて、自分も走り出すことができればいいのに。誰かが、いまだよと、やさしく背中を押してくれればいいのに。叶えようもない甘ったれた希望ばかり膨らんで、背中が重たく、鈍く鋭く痛むから、余計な荷物をどこかへ捨ててやった。
私はいつもどこへも行けず、走り出せず、恐怖から逃げ出せず、黒い、小さな、土のついた汚れた手を振り払えない。いけないと知りながら、拒絶できずに、のみこんでしまう。逃げたら、追いかけられるから、受け入れて、目をそらす。何もないところをみる。