私はどこへ行きたいんだ。私は何がしたいんだ。「いまならできそう」と「もう駄目そう」が交互にやってきて乱暴に背中を押していく。目の前は、ときに深い海、ときに渇いた砂の山、ときに柔らかい温かい肉、ときに白いおまんじゅうが漠然と広がり、それはいつも不定形で変化し続ける。私は安定を知らぬまま、「どこ見てるかわかんない」目で何もないところを見ている。何も見ないように目をあけておく。
私は突っ立ったまま、いつも、どこへも行けない。いまなら行けそうだという追い風に乗れたらいいのに。その勢いに任せて、自分も走り出すことができればいいのに。誰かが、いまだよと、やさしく背中を押してくれればいいのに。叶えようもない甘ったれた希望ばかり膨らんで、背中が重たく、鈍く鋭く痛むから、余計な荷物をどこかへ捨ててやった。
私はいつもどこへも行けず、走り出せず、恐怖から逃げ出せず、黒い、小さな、土のついた汚れた手を振り払えない。いけないと知りながら、拒絶できずに、のみこんでしまう。逃げたら、追いかけられるから、受け入れて、目をそらす。何もないところをみる。
うまく答えが言えないのだが、 感情に任せないほうがいい。 感情はレガシーであり、盲目だ。 理屈ではない。 感情は大事だが、話半分に聞くこと。 すべての感情を等価に扱ってはいけ...
ありがとう。 現実世界は思っている以上に積み上げ型なので、 毎日積み上げていくこと、積み上げることができるものに注力するべきだ。 ここ、まさしくその通りですね。自分...