はてなキーワード: 衆愚政治とは
衆愚政治になることが目に見えていても、それでも直接民主政治をやってみたらいいのに、と思うことがある。
「たとえ自滅するとしても、自分たちのことは自分たちで決める」みたいな。
でも民主主義体制下では国民感情に従わずして決めるのは無理だよね。
民主主義より先に存在してたことと民主主義的に決まってないというのも違うよね。
でも判決を決める基準となる法律は国民感情によってきまってるわけでしょ。国民審査の可否だって民意と無関係ではないし、法律を変えれば判決も変わる。しかもこれからは司法を専門としてない一般国民(衆愚?)も裁判に参加させることが民主的な手続きによって決められたんだから、ますます国民感情が反映されやすくなるんでないの。
国民感情によって存置しているということと、民主主義的に決まったということは違う。
国民の多くがそれを望み、それを民主主義的な手続きによって決定すれば、社会学的にどうかはわからないが、法的には十分に正当なものとなる。
ちなみに、日本においては、というより世界的に死刑制度は民主主義より先に存在した。
そして、国民の感情で決まることと(どんなふうに?って話だが、)、民主主義的に決まることは違う。
「国民の大多数が思っているから」とかいう理由で物事を決めるのは、日本の民主主義ではない。
http://anond.hatelabo.jp/20070831115324
国家公務員資格のどこが知性と論理性を証明出来る資格なのか教えて欲しいものだ。I種ですら誰でもとれるレベル(とまでは言わないにしても基準が緩過ぎる)だろう。
知性ではなく勇気だ…まあいいとしても、知性は借りることが出来るとかいうが、その借りる先がそもそも政治に関わっている人間でしかなくて現場で最先端の知識を持っている人間じゃないのが1つの問題(一応各界の有資格者・有識者と言われる人間が出ているが、政治に入ると同時に現場から離れた時代遅れがほとんど、しかも年齢的に十分に熟達する前に政治の世界に入ってしまっている為知識自体が未熟)と、最終的な判断を政治家(無知な人間)が行っているのが問題。この前の社会科教育に関する委員会も酷かった(参考:http://anond.hatelabo.jp/20070829163541)。知性を本当に借りられたならば、ゆとり教育などなぜ施行されたと言うのだ。結局はマスゴミと民衆の、レベルの低い世論に押されただけ。衆愚政治。
現状が充分地方分権に成っていると思えるのはなぜだ。あの大統領独裁制のようなアメリカよりもずっと中央集権じゃないか。最終的に重要な国策(国全体の政策)は、多数決原理に従うべきじゃない、という話。かといって独裁はマズいので、有能者達の寡裁的にすべきというか。
勇気を試す場がないというのだけは同意。
http://anond.hatelabo.jp/20070829185135
大変なことになるよ。夜神月くらいの知性と論理性があればともかく、その辺の一般人がデスノートを手にしたら、夜神月の真似して正義を気取っておきながら、実はマスコミの情報を鵜呑みにして一方的に弱者擁護的な判断基準で殺して行くと思う。あなたがデスノートを手にしても同じ。詳しい事情も知らずにニュースで出た報道だけでどんどんと加害者に見える人間を殺して行くだろう。魅上照が(彼は頭がいい設定だったからまだマシだったけど)若干それに近いことをやって夜神月を焦らせた(修正が必要と思わせた)でしょ。弥海砂は完璧に否定されてたしね。
んで、現実世界には常に一貫した基準で私情を交えずに判断し続けられる人間は存在しないから、絶対的権力を1人の人間が持つのは危険で、そういう仕組みは排除されて来た(民主主義)。でも民主主義は上記のようなまともな思考の出来ない人達が集まって方針を決める政治なので、衆愚政治になると言われている。
じゃあどうすりゃいいのよ、って言われると難しいけど、やはり身近なことならそこそこ判断出来る人も多いと思うので、中央集権を排除して地方、それも市町村単位の小規模に権利を移譲して、中央(国策)は全国民の投票に依って決める現在の方式じゃなく、一定以上の知性と論理性を持っていることを証明する資格を設けて、その有資格者数人で(1人の絶対権力はまずいので)やってくってすれば少しはマシになるかもね。
「自分のことは自分で決めたい、たとえそれが愚かな選択であったとしても」
最近思うのだけれど、多数決は民主政治に属するものではなくて、衆愚政治に属するものなのではなかろうか。
愚かな多数者と、それを支配する少数者――多くの人は、不安定な自由よりは拘束された安定を望むから――が数の暴力で、或いは感情に身を委ねて権力を振るう状況は、衆愚政治ではなかろうか。
民主主義は個々人が理性的思考が出来ることと、それによる議論を前提として成立するものではなかろうか。従って、真の民主主義のためには、各々の構成員について、それに相応しい資格、理性を保有することを確かめる必要があるのではなかろうか。感情によって非理性的判断を下した構成員、理性的な議論を拒む構成員には積極的な警告、及び一時的な権利剥奪を含んだ処分を下してこそ、民主主義は成立するのではなかろうか。少なくとも、民主主義の担い手には、その権利――多くは投票という形式となろう――に対して積極的な責任を負う義務があるのではなかろうか。
故に、真の民主主義とは、いわば知性による貴族政治に他ならないのではなかろうか。知性の貴族でなくして民主主義を担うことは出来ないのではなかろうか。