増田で差別問題の話になるといっつも差別はあるない、自分はしてるしてない、構造的差別がある等の話になる。
なるんだけど、結局のところ
差別が無いという人も、自分はしてないという人も、その欺瞞を指摘するも、
差別の解決にはなんにも寄与してないんだよな、と思ってしまう。
差別なんてない、差別はあるけど自分ではない、差別はあって自分はわかってるのでわかってない人を指摘する。
理解の階層こそ違えど、自分自身は差別とは関係ないって言いたいだけじゃないのか。
より穴のない奇麗ごとを言う知識・社会性があるだけで、本質的には何も変わらないのではないのか。
実質的に差別の容認側であるが、だからこそ心は思想は知識は理性はそうではないのだと主張する。
主張したところで、良くなるのは己の気分だけなのに。
これはいにしえの自己紹介乙としか言いようがない…