「政治的イデオロギーがアイデンティティを形成する」という現象は、良い悪いに関わらず、実際に起こっていると思う。「原発に賛成/反対しなければ私ではない」「天皇制に賛成/反対しなければ私ではない」という具合に。「それが必要かどうか」ではなく、「私が私でいられるために」それを主張するというのは、意外に普遍的に見られる気がする。
であれば、その現象に我々はどう向き合えば良いのだろう。馬鹿にしていれば解決するという話でもないだろうし。馬鹿にしている人こそ、自分を省みて、同じところがないと本当に言えるのか考えるべきだとも思う。
「表現の自由」は何のためにあるのか、その「表現」は誰のためのものか、誰の「自由」を求めているのか、きちんと考えて主張する必要があるのではないか。「我々のアイデンティティ」だって軽視されるべきではない。だけど、それは「みんなのアイデンティティ」ではない。あなたは困るけど、私は困らないのだ。「私は困る」と主張されれば、それに配慮は必要だと思うし、前向きに議論することは可能だろう。しかし「あなたも困るよ」と脅されたところで「困らないよ」と答えるしかないので、そこで議論は終わってしまう。
他人のどうでもいいアイデンティティらしきものは「呪い」の一言で片づける人たちのことなんかどうでもいいです
異なるイデオロギー同士がぶつかり、それが政治的・経済的利害の衝突になると戦争に発展することもある。 日本と韓国がお互いに批判し合っているうちはまだ安全だった。 しかし、韓...
なってねーよ。 どうせなあなあで口喧嘩してそのうち飽きられて問題が残ったまま放置になってる。 今まで20年、くだらん揉め事なら腐るほどあっただろう。ほぼ解決なんかしてない...