私が“働くべき理由”は家族孝行するため、自分が好きな物を買うため、住み心地の良い家に住むため、「社会人です」と胸を張って言うため、という理由があるが、それよりも「しんどい思いはしたくない」という“働きたくない理由”が大きくなっている。前者のほうが立派なのに。後者はくだらないのに。その「しんどい思い」というのは、言葉こそ短いが色々な暗いもやもやが混ざっていて、きれいな“働くべき理由”よりも大きくて重量がある塊なんだ。“働くべき理由”は透明でふわふわ浮いている。とても軽い。“働くべき理由”を重くしなくてはいけない。でも本当は自分が感じているより重いものなんだろう。直視していないだけで。あと10年後には親は年金暮らしになる。年金は、それだけで生計を立てるのにはきびしい額らしい。直視すると、暗い将来しか見えない。そのドス暗い将来を回避するために今頑張らなくては。それだけの思いだけだと苦しい。ドス暗い将来を、楽しみながら回避できないかな。人生の楽しみを味わいながら回避できないかな。