私は、協調性という言葉が嫌いである。
元の意味は好きだ。しかし、今の多くの人の捉える協調性は真の協調性とは大きく違うと思う。
話は少し変わるが、友達とは何なのだろうか?
ただただ、イエスイエスというのが友達なのだろうか?
周囲の人たちは、イエスと言わない人を除け者にし、イエスという人たちで集い、楽しむ。
しかし、確実に本心ではノーと思いながらもイエスと言ってまで友好関係を続けよう。と考える人もいるのではないだろうか?
そんなのは友達ではない。
友達とは全てのことを同調するものではない。
友達とは強いものに従い自己に規制をかけるものではない。
しかし、今の社会は強いものの意見に対しイエスと言わなければ除け者にされ、更にはいじめという最低最悪の行為を受け悩む人もいるらしい。
たとえ、いじめを受けても除け者にされても私は言い続けたい。
協調性。それは、すべてに同調することではないのだ。
協調性。それは、強制ではない。
まぁ、それでボッチになったんだけどね。
Permalink | 記事への反応(1) | 11:43
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必要なのはノーでもイエスでもない、シェイシェイだ。