人を救うものは単に心奪うというよりは心奪い返すものなんでないの。
ニルヴァーナは「思春期のやり場のない鬱屈した感情」から心を逃がして返してくれた、的な。
共感が救いになるっていうのは、「同じ(ような)ことに苦しんでいる人」の姿を提示してくれるものだからでしょ。
自分もある意味この人と同じだ、自分はこの人なんだ、というのを、外部視点から見させてくれる。
苦しみの渦中から多少なりとも出してくれるし、出るとその苦しみをどうやっつけていいかがわかるから「救われた」って感じるわけよ。
元増田はそもそも自分がどこにいるのかっていうのを見失わないタイプなんじゃないの。
例えば音楽だったら音楽終った瞬間に我に返るタイプ。あるいは鳴ってる間もどっかしら我が残り続けるタイプ。
そういうのって体質みたいなもんだからそれ自体は別にどうってことないけど恥ずかしいっていうのはちょっとアレではある。
いったい誰に対して何を恥じてるん?他人事だろう?
救いがどうこうとかめっちゃ言いふらす人間が周囲に居て辟易してるってとこだとしても、それはせいぜい単にその個人がイタイだけであって「救われたという思い込み」なるものがあるという話にはならない。
よく「○○に救われた・共感した」的エピソードを語る人がいる。 (○○は音楽、映画、本etc何でもいい。例えば『高校生の頃に聴いたニルヴァーナは思春期のやり場のない鬱屈した感...
人を救うものは単に心奪うというよりは心奪い返すものなんでないの。 ニルヴァーナは「思春期のやり場のない鬱屈した感情」から心を逃がして返してくれた、的な。 共感が救いになる...
人は人、自分は自分。その人と増田のどっちかがおかしいとかないだろう。 ただ、「救われた」のが思い込みって増田が決めつけるのはどうかと思うが。