もう苦しくてね。
「じゃあなんで○○しないの?」
それができないから悩んでるんだよ。
「それって本気で○○しようと思ってないだけでしょ?結局今のままでいいって思ってるんじゃない?」
いや、本当に苦しいんだって。
「でも○○しようとは思わないんでしょう?だったらずっとそうしてれば?」
先日カート・ヴォネガットが亡くなったことで、「はてなダイアリー」の「ice9」について思い出した。
はてなに入って、よけいにインターネットとはどういうものか、つきつけられたような気分になった。ぼくはニフティが嫌いだったのでインターネットが好きになれたんだと思っていたけど、今、インターネットで一番注視されて、仕組みが強化されているのが、ぼくが嫌いだったところばかりなので、嫌だなあと思う。
話はちょっと変わるけど、ekkenさんは倫理の話をしているようにも見えて、実は論理的な矛盾についてしか話していない。なぜだろう。
ekkenさんの「他人の俺ルールを指摘しつつ自分の俺ルールに気付かない罠」というような言い方は、最近のはてなでよく見る気がする。つまり、はてなの言論は、相手が論理的に破綻しているということをいかに言うかというゲームに近づいてるような気がする。相手の言ってることをメソッドメソッドと言って、議論をパターンに落とし込もうとするのも、一部はこれが目的になっているものがあると思う。
まあ、ぼくがこういうふうに書いているのもパターン化しようとしてるじゃないか、と言われると困るんだけど、うーん、それはトートロジカルだからパスということにさせてもらいたいなあ。
なぜ論理的な破綻を指摘するのが専らになっているかというと、はてなというブログで行われる「議論」の上では、倫理という不確かな基準は邪魔なので、かなり早い段階で捨てることが可能になった*1からじゃないだろうか。
倫理という、いかにも相対的に成り立っていそうな基準を残すと、「どっちも正しい」または「どっちも正しくない」と言い得てしまうから、基準として使わないことにした方が議論は長持ちするし、面白くなる。それと、結論(勝ち負け)が作れる。それともう1つ、論理的な方が勝てる。
でも、議論のために倫理基準を棚上げするのは、論理的な間違いがないかどうかだけで消去法的に「正当性」が決定されていく危険性があって、今のはてなには、ぼくはそういうものを感じる。それは開かれた言論とは違うと思うし、イヤだなあと思う。
ekkenさんは、たとえば「お前のやっているのは下劣なことだ」とか、そういう倫理的な領域しか持たない言い方だと、ヘタをすれば目糞鼻糞みたいなことになっちゃうから、そういう言い方はしない。だから、相手のやり方自体がいい悪いとは言いませんよ、と断った上で、矛盾の指摘を行っているんだと思う。こうすると、「相手は非論理的であり間違っている」という、別の話になる。ついでに「自分は論理的で正しい」とも言える。相手の非論理性を指摘できるほどに論理的なんだ。でも、これって議論というものになっているんだろうか?ぼくは議論とか論争とか、討論とか、そういうのに疎いのでよくわからないなあ。少なくとも、意見交換にはなってないよね。お互いにとって。
本来なら、倫理は基準が曖昧であるからこそ、それにかかわる話はむしろ慎重にしなければならないし、「結論」を導き出すのを避けてもいいはずと思う。倫理を論理的な問題に置き換えることは、議論のための議論ではうまくいくけれども、本来の目的が相互理解とか意見の交換だとすれば、そういう方法が有益かどうかは疑問だ。*2
そもそも、論理だって結局は倫理や感情から乖離して築かれるわけじゃないから、この考え方はとても歪だ。そして、はてなにおいて特に発達してしまっただけの理屈なので、どこでも通用するわけじゃない(どこででも通用する理屈などない)。だから、外部とはてな内を容易に繋いでしまうはてなブックマークは、その倫理について外部から批判を浴びやすいし、擁護しにくいのではないかと考えられる。
しかし、ここで先に、断っておいたほうがいいと思う。ぼくはこれから、ボコノン教が、はてなにはびこっている思想より優れているから学びなさいとか、逆に、はてなに見られる思想の中身が、ボコノン教の教義とそっくりで、つまりはてな「こそ」がカルト的なのだとか、そういうことを書くわけじゃない。「はてなの連中は、カルトと同じだ!」などと、読者に対してセンセーショナルな書き方ができれば、ずっとこの話は簡単だろう。しかし、そういう話ではないんだ。
さて、本題に入るために、物語からボコノン教に関する部分だけを取り出してうまく説明することができるか、やってみよう。そんなことができるか、わからないけど。
結局、「連帯」なんて、どういうものであれ、「無意味」なのである。「連帯」に限らず、本来、コミュニケーションというものを論理的に突き詰めるならば、だれもがみんな、別の誰かから見ればカルト教団みたいなものなんだ。どこにも了解できる真実などなく、全員が、それぞれにとっての真実を持っている。コミュニケーションとは、わずかずつルールを積み上げて、お互いを把握していく作業だ。もちろん、どちらが正しいかを決めるゲームなんかじゃない。
ところが、はてなでは、単にはてなで築いてきただけのルール=常識を、いきなり他者に適用しようとする人が多いように思う。重ねて言うが、自分の意見が正当かどうかは、分からない。確認のしようは、どこにもない。論理的というのは、本来そういうことなんだ。
それなのに、相手が自分と同じルールを了解していないことを、「客観的でない」態度であるとして退け、そこに議論での優位性を訴えたりするのは、まさに「客観的」ではない。それは「客観性A」とでもいうような、限りなく不確かな視点だ。
ああ、どうして自分が正しいなんて、言わなくちゃいけないんだろう。自分は理性的で論理的だなんて、言うんだろう!自分のほうが一般的な考え方をしているとか、法律に適っているのは我が方であるというのは、「相手が間違っている」と言いたいだけじゃないか。突き詰めれば理性も論理もない、という深淵を覗き込まず、いつも相手だけが感情的なのだ。
やっぱりこれは、末代祟る、恐ろしい呪いなのかなあ?
はてな以外のブログサービスでは、触れあわない人たちは、ほとんど触れあわない。検索エンジンなどによって、ネット全体という括りか、狭くてもブログ界隈という括りでまとめられる。だから、サービス内部のみでのコミュニケーションの契機は、はてなほど頻繁には発生しない。昨日書いた、mixiの話にちょっと近いと思う。つまり、お互いに分かり合っていないということすら認識せずに、そこにいる。
はてなには、ぼくが知っているだけでも、キーワードがあり、「おとなり日記」というのがある。ユーザー同士を言葉で近づけようとしているってことだ。
しかし「言葉」には、本当は内在する意味なんてない。そのことが、相互理解のために使われないのは残念だ。はてなのユーザー達は、それを論争の種にすることに馴れてしまっている。「常識」を決するゲームが開始されるんだ。
それくらいの気持ちも伝えられない程度の彼氏なんだー、へー。
彼氏にくっつくと、よく「邪魔」とか言いながら押しのけられたりする。
冗談でやってるだけだろおーと思ってあんまり気にしてなかったけど
もしかしてこういう気持ちでやってるのかな?と思ったら凹んだ。
いや、トラバ先の人も、「うざい」っていうだけで「嫌い」とまでは行かないんだろうけど…
ああぁ。
あれ、前書いた日記が無い…まあいいけど。
何でWebで日記なんて書いてるんだろうってたまに思ったりする。
誰かに見てもらいたくて書いてるんだけどね。
普段の生活はよく一人で過ごすことが多いから、寂しさからかもしれないな。
寂しさから相手を求めることはよくあるんだけど、求めた後に飽きてくるんだろうか、
また一人になりたいって思ってくる。
孤独なときは相手を求め、相手がいるときは孤独を求める…なんか自分勝手すぎるなあ。
いつまでもこんなんじゃいけないかな。。。
Capsule(というか中田ヤスタカなのでPerfumeもウェルカム)のキャッチーさも好きだが
RADWIMPSの歌詞に涙する俺もいる。
マイナーだろうがメジャーだろうが気持ちよけりゃ良いじゃねぇか。
あと、ケータイの音楽なんだけどあれはあれで悪くないと思う瞬間もある。
スピーカーがついてていつでも思いついた瞬間に音楽を流せるのは意外と凄いことだ。
使う場面によってはiPodなんかよりも音楽を身近に感じられるツールと思う。
どういう会話がされたかなんてわかりはしないので、見当違いのことを書くかもしれないが。
多分父親にはあなたが築いてきた社会的な関係も見えていないし、あなたの周囲の人間関係も見えていない。
それは単に遠いものに対して想像力が働き難い、自分と直接の関係が無いものに対して価値をおきにくい、というそれだけの理由。
息子の社会的立場を考慮できないというのは、責められるべきだとは思うが、それを少しは考慮に入れて、
自分が、いまの生活や関係を大事に思っていることは、意識して伝えてやったらいいんじゃないかと思う。
なんか、決定的な断裂をもってしまいそうな感じに見えるけど、
その前に親子喧嘩ぐらいしたらいんではないか。
そういう段階を過ぎてしまったのだとしたら、もうなんとも言えないが。
あー全然大丈夫。気にしない気にしない。
人よりちょっと遅めの自我の目覚めというやつでは。
そういう奴、高校くらいの時結構いるもんだよ。
ちょっと病気気味だね。強迫性障碍ってやつか?
火事が怖い。
自分が寝ている間、自分が仕事している間、コンセントやガスコンロから火事になってるんじゃないかとか不意に考えてしまう。消したはずのアロマ用蝋燭やバッグに入っているライターまでもが気になってきて、焼け落ちるツーバイフォーの姿が容易に想像できる。焼け跡からは人だったものが出てくる。それは
とか考えてしまって凄く辛くなってしまう。怖い。火事が怖い。
もうこの時点でダメダメですよ
もうね、だんなの背後に姑見えるし、だから単体でだんなを見ていないというか、
いやなところは増幅されるし。
なんていったらいいかわからないけれど、
奥さんが本気であなたのことを嫌いになる前に考えを少し変えてみてほしい・・・・
http://anond.hatelabo.jp/20070423200013
ま、入ってそんなこと言ってるような奴は救いよう無いけど。
異常な嗜好を持っていることは重々承知。
だけれどもそれだけで迫害されたらやってらんない。実際、似たような嗜好の人が色々言われていたりするし、仲の良い友人に言ったら「それは他言しない方がいいよ」って言われたし。
でも否定されたら悲しい。生きて行けないとまでは言わないけど、それでもその需要を満たすコンテンツが存在している事からして同類が居る事は判る。判るけれど、あの人達と嬉々として自分の嗜好について語り合う事はできないし、したくない。だからコンタクトしない。嗜好を満たすものを自分で生産することは不可能。リアルでは無理なんだ。代替品ならあるけれど、それじゃだめ。上手く供給側が「真実が今まさにここにある」かのように見せてくれないと、ハリボテだ嘘っぱちだと判ってしまうと気持ちが萎えてしまう。
この世界から居場所がまた一つ消えたよ。なんか、遠まわしに生きているべきではないって言われてる気分。
仕事で大穴空けて、もう電話もメールも三日以上放置してる。シャレになってない。少なくとも、俺がささやかにこれまで積み上げた人生はもう終わった。それでも生きている限り人生は続く。続いてしまう。憂鬱だ。人生は「強くて最初から」はないのに、エンディングまで原則無制限コンティニューなんだもんな。あはは。あはは。電源ぶっちぎって強制エンディングをみる勇気はないんだぜ。呆れる。
別に音楽の話なんか、友達としなくたっていいではないか。
音を楽しむことが出来てる人が周りにいないと言い、
ここで自分の聞いている音楽を得意げに書き込む増田は、本当に音を楽しめてるのかい?
ただ単に、良いとされてるメジャーマイナーな音楽好きな自分が好きなだけじゃないのかい?
まあ、音楽について周りの人と語りたい気持ちは分かるんだけどさ。
とりあえずフェスとかクラブに行けばいいと思うよ。そこで音楽友達を作ればいい。
友達は出来無くても、一夜限りの仲間は間違いなくできるよ。
読者にわかりやすいように、自分のブログの端っこのほうにでも、「私の悪意と嫉妬です。」って書いといたらどうよ。そしたら親切でしょ?
http://anond.hatelabo.jp/20070424000415
増田が悪いに決まってんだろ。
親の悪口を言う必要は無いが、せめて親の代わりに謝ってやれ。
それぞれ価値観の違うもの同士が一緒に暮らすのが夫婦だし
真っ当に添い遂げるなら親との付き合いより嫁との付き合いのほうが長くなるんだぞ。
こういうときの対処法として、増田のやり方は最悪。
親とは喧嘩しても血のつながりがある、嫁と争ったらプッツリ切れるぞ。
そこでそれが言えるお前の育ちに同情