2020-08-09

結局ポリティカル・コレクトネス共産主義と同じだった

同じというのは思想がということではない。

お題目は大変崇高で、実現できれば素晴らしいが人間が素晴らしくないのでダメな方に転がっていった。」という所である

本来マジョリティの無神経さからマイノリティを守るという何気ないものであったはずであるが、今や「自分不快もの相対主義を持ち出してすりつぶす行為」に変貌した。

まるでアテナイソフィストである

というかそのまんまだ。プロタゴラスなどのちゃんとした知恵者が節度を持って使っていれば、学問ツールとしての懐疑論に収まっていた相対主義も、市井政治の場に降りていった時点で、相手を蹴落とし、自己肯定のために用いられるごろつきの便利ツールへと変貌してしまった。

野球ルールの中で使えば人々を楽しませることができるバットも、人の頭に使えば簡単に不幸を量産できるようなものだ。

ポリコレもきちんと自己批判、懐疑、考察を繰り返すことのできる「ルール守って議論できる学者」が使っていれば人類倫理底上げできるものであったのであろうが、

自己批判自己観察もできない我々のような一般市民の手に落ちたことで、自己肯定社会の中での地位闘争転用されてしまったと言って良いだろう。(その間に「自己批判ができない学者=ド三流の学者」が挟まっているのは相対主義でも同じである

共産主義相対主義も、学問ルールに収まっているうちは誰も殺さなかったし、何者も抑圧しなかったのである

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