2019-05-27

昔の職場の話

職場でいくつも見ていた骨壷を今でもたまに思い出す。黒い服を着てかしこまった人たちが、その人の名前や死亡日が書かれた申込書と一緒に大小さまざまな骨壷を手渡してきて、それを受け取って裏に引っ込む。二人が立ったまま並んで作業するのがやっとの小さな作業場で、黒塗りの盆の上に骨壷の中身をぶちまけて、箸で拾い集めて、細かいかけらは筆でひとつも残さないように小さな桐箱へ収めていく。骨は枯れ枝みたいな軽さで、これが人体の一部だなんてあんまり信じられなかったけれど、昔火葬場で拾った骨とも一致したし、確かに人の名前をつけられて渡されるわけだし、精一杯の丁寧さで扱っていた。すべてを桐箱に収めてしまうとふたをして、法名をそこに書き込む。俗名はもう書かれることはなく、手のひらに収まってしまう小さな桐箱は、仏弟子のひとりとなって、また盆の上に載せられる。それは一度お経を聞いて、最後宗祖の像の下にしまい込まれる。もう二度と取り出されることもなく。その一連の儀式で涙をこぼす人も幾人か見た。人が死んで、それを受け入れる、その一区切りを担っているのだなと感じた。今はまったく違う会社にいて、そういうことをすることもない。それでお金を受けとるのがいいのか悪いのか、私にはいまだにわからない。そこにしまわれたからと言ってその人がどうなるわけでもない。ただ、毎回箱に収める作業は、何も考えないようにして行っていたけれど、ひどくやるせなかった。死んでしまうとこんな流れ作業で扱われてしまうのだと、その人がどんな人だったかなんて関係もなく、小さい箱に詰め込まれて安置される。それなりの額のお金と引き換えに。毎日法事は行われ、でも決して死んだ人のためではない。宗派の教えとして、故人を弔うためにお経は読まれない。遺族の方がどれだけそれを知っているかもわからないまま、渡される遺骨を受け取る。それが本当に正しいのか、今でもわからない。でも、今もそれは続く。それが大きな収入である限り、ずっと続いていく。

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