「言い間違え」が問題となっているけど、本質は功利主義的な視点から震災被害の「結果」を天秤にかけたところが問題ではないか。義務論的な視点から批判すべきではないかという話。
マスメディアが報道する「単なる言い間違えでは済まされない」という批判には「言い間違えであっても被災者を傷つけた」という被災者に対する情や思いやりといった「想像力」が問題とされている。この視点も大臣の資質という点において、もちろん大事ではあると思う。
ただ、「まだ東北で、あっちの方だったから良かった」という発言、「首都圏に近いようだったらもっととんでもない災害になっているだろうという意味で言った」と釈明について「想像力の欠如」だけではなく、倫理学的な批判もできるように思われる。
今村大臣の発言(釈明も含む)には、一貫して「東北」と「首都圏」を天秤にかけるという視点が見受けられる。すなわち、「結果として、どちらの方が甚大な被害だったかということである」。これは倫理学理論でいう「功利主義(帰結主義)」的な解釈であるといえる。
ただ、この「天秤にかける」ということ自体が問題視されなければならない。今回は功利主義的な量的な比較は必要なかったからである。
震災の被害はどこで生じたとしても「ここで良かった」と結論づけることはできない。こうした倫理的な正しさ自体について問う場合には、功利主義的な視点はバツが悪い。(もちろん、功利主義が有効な場合もあり、功利主義自体を批判している訳ではない)
今回は「義務論」的な視点から批判することが必要であったのではないか。「正しさ」とは何かを考えた上での批判、「天秤にかける」視点自体への批判が必要であるように思われる。
発言の撤回、最終的には辞任となったが、今回の騒動から「功利主義」と「義務論」という倫理学理論について学びとることは有意義であるように思う。
大枠に異論はないが、「今回は功利主義的な量的な比較は必要なかった」とする理由が見えない。