最近、お見舞いに行く機会が多いので考えてみた。
人生に本当に必要なものは、入院するときに持っていけるものだけなのかもしれない。
それ以上に持っていると便利だったり、周りから賞賛されたりするものがあるかもしれないけど、入院するときに持っていけるものこそが本当に生きるために必要なものとして、ロートを通して濾しとられたものなのではないだろうか。
それ以外のものは、なくても生きていける。
もしも必要なのであれば、大切な何かを失う代わりに、心のすきまを穴埋めしているものだ。
やたらとものが多い人は、何か生きていくことが自体が本心に対してうそをついて生きているのではないだろうか。
電化製品、乗り物は持ち主がいなくなるとあっという間に劣化が始まる。
使わないと自然と動かなくなる。ガソリンは分離するし、エンジンは固まる。バッテリーは使えなくなる。
まだ鬼籍に入るような年齢ではない親類が亡くなったときに思ったことは、こだわりのコレクションや日常品も死んじゃったら膨大なごみになるかもしれないことだ。残された遺族がそれに価値を見出すことができるかどうかはわからないし、お金に換えようにも二束三文かもしれない。
そう思うと部屋を埋め尽くしているいろんなものは一時的に自分の近くにあるだけであり、時間が経てば、朽ちるかほかの人の手に渡るもので、刹那なものだと思えるようになる。
そう思うとアレもコレもと何か使えるかもしれないと保管しておいたことがバカらしくなってくる。
もしかすると、あなたが友達だと思っているだれかが、「いいね!」といってくれたり、「@」マーク付きで返事をしてくれたりしたことが、その不要なものに価値を与えてくれているのかもしれない。そんな評価は吹き飛ばしてしまうと、人生の視界が良くなってくるとような気がした。
思い出とか思い入れを断ち切って、今を生きる。
断捨離ってやつだな。 食事、衛生(掃除・洗濯・風呂)、空調、安全、話し相手 これらが病院にある、ってことを忘れずに。 それと、入院には現金が要るぞ。