何か、国道を車で走っていると制限速度は40キロなのに車の流れに乗ろうとすると
実際には80キロ出てしまうという感覚と一緒なのかねぇ
おもしろそうなので、お礼にこちらからも釣り針たらしてみますね。
元々将来を保証するつもりなんてさらさらなかったというだけ。
年金という仕組みが出来上がってからそろそろ受給者が増えすぎてしまい、
今は、いつ手仕舞いしようか探っている時期だよ!
他の国より10年遅れたけど他の国では10年前にすでにおこったできごとさ。
いや、ラッキーな方だと思うんだ。
大阪なら…
後男「あっ?おっ?なんや、ここ?すんませーん、ごめんくださーい!」
前男「え、ボクですか?」
後男「どうもはじめまして、ってここはお前ン家か!?」
前男「え、あの?」
後男「うわーオトーサン早してー!?漏れるー、早よどいてくれへんとトイレにまにあわないー!」
前男「あ、ああ、すみません。」
端から見てもwwwwwww
おまえは黙ってろ、な。
上とか下とか、意味わかんないんですけど?
私には見えない上下関係が「見えちゃう」シックスセンスの持ち主?
なんかこういう「上から目線」だとかなんとかやたらにぎゃーぎゃー騒ぐ人ってネットで時々見かけるけど、なんなんだろ、中学校あたりのいじめでトラウマとか抱えちゃってるかわいそうな人なのかな。DisるかDisられるかのどちらかしかコミュニケーションのチャネルを持ってないのかな。上下関係しか経験してきてない?…ああ、こういう人が対等な交流とかできないから「非モテ」とか自称しちゃったりするのかな。
私には、自分から勝手に下に降りちゃっているようにしか見えない。ともかく理解不能。
ダブルバインドは、要するに何か矛盾する事を色々言われて「わーどうすればいいんだよー」ってなる状態のことだからダブルバインドといえばそうだろうが、それを元増田のように言った側のせいにするような言い草は違うだろ、って事な。ある意味ダブルバインドなんて皆当たり前に陥る事だから。それは言葉を発した方じゃなくて受け取り側の問題だから。「どちらか選べない」っていう。
会話の仕方とか発展のさせ方とか色々書いてあるけどどこでどう知り合うかが書かれないのは何故なんだぜ?
いや、「なんとなく利用してる客のマナー的には違反になってる」という意味では確かに「マナー違反」になっているのだろうけど、基本的には「片側空けはしないように・歩かないように」なのには間違いないわけ。鉄道会社側がそう決めてるわけね。しかし今までなんとなくなぁなぁで「片側空けがマナー」みたいに客の間でなってしまっているから確かにその意味では「マナー違反」であるのだろうが、マナー違反よりも定められたものの方が上なわけじゃん。そういう意味。ただ、「片側空けアナウンス」(これはエスカレーターじゃなくて動く歩道らしいが)があるところもあって、そこは決められた環境とマナーが一致してるマイナーな場所ってわけね。要するに。
「片側をあけるのが常識」という考え方と、「片側をあけるのは危険」という考え方の間で、マナーが揺れているようにも見えるけど……。これっていつからなの?
「もともとエスカレーターは片側をあけないで乗ることが基本です。片側をあけ、急ぐ人が歩いて通るというのは、自然発生的に生まれてしまったもの。本来は、ステップの黄色い枠の中に立ち、必ず移動手すりを持つというのが、正しい乗り方ではないでしょうか」
と、事務局長の井出さんは言う。
ただ、法的根拠としては
昭和54年建設省住指発第31号建設省住宅局建築物防災対策室長「協力依頼」
として
(1)「エスカレーターの安全対策標準」(昭和52年1月19日付け建設省住指発第25号別添)に掲げる事項について、可能な限り実施するよう努めること。
(2) 建築基準法第12 条に基づく定期検査を励行すること。
(3) 利用者に対し、エスカレーターの正しい利用方法の周知徹底に努めること。
(4) 店員等が利用者に対し、エスカレーターの正しい利用方法を指導することができるようにするとともに、緊急の場合に的確な措置をとることができるよう、安全教育に努めること。
の(3)のようでまあお願いつうところではあるんだけど。
確かに最近はよく、エスカレータで歩くのは良くないといわれるよな。実際はそうなんだろうけど。
しかし、郷に入れば郷に従えというのもあるよね。「歩く方のために左側をお空けください」という注意書きがエスカレータの周辺に書いてあったりするだろ?
上に立って見下ろそう見下ろそうとしすぎてなんだか必死になってしまっているいい例。
画像の判定という段階が入ったことで、少し複雑になったとは言える。
更に、例えば警報を鳴らしたときに慌てて逃げたら本当の侵入者、正しいアカウントで端末を操作して警報を止めたら誤警報っていう風な判定をつけて学習するようにすれば、「自己言及して検討できるモデルを有する高度なプログラム」に近い機構になったと言えるのでは。
というより、プログラムはただの指示の配列なわけだから、そこで処理される情報の流れの方が意識の本質に近いと思う。
もうちょっというと意識の神秘っつうのは面白すぎて結論が先に用意されるキライがあると思う。
読み物としてはいいけど、科学的な真理めいた表現されてるのを見るとそれってどうよとか思う。
仮説なんて最初はそんなものでは?