はてなキーワード: 良妻賢母とは
小学校の頃通ってた進学塾の先生に「お前が男だったら灘とかラサールとか行けるのにな」と嘆かれて、その辺の全国上位の進学校がみんな男子校だということを初めて知ってすごくショックを受けた。
全国模試では常に10位以内に入ってたから成績的には確かに無理なく狙える範囲だったんだ。他流試合を受けに行く感覚でよその系列の塾の全国模試とかも受けに行ってたけどそこでもそうだった。
親も「男だったら灘みたいな県外校でも行かせるけどあんたは女だしね」と言うので結局県内で女子が入れる中では一番偏差値の高い国立共学校に進んだんだけど(入試成績は男女含めて一番)、それが初めて女であることで可能性が制限されることを実感した体験。(それ以後山のように感じてるけど)
環境のせいにするのはよろしくないと思うけど、高1までで高3までの履修内容は済ませてしまって残り2年は受験対策取ってるようなそういう私立進学校と国立という縛りもあってそんな先取り履修のできない進学校じゃやっぱり差がつくのは仕方がないなと実感した。女子校なら、良妻賢母を指導方針に掲げるところがやっぱ多いんじゃないの?
むしろ問題なのは灘に女が入れないことだと自分は思う。
そういうとこから男女は差がつけられてる。
悪い悪い。スレ子はあくまでスレンダーというだけの前提での話。
もう「顔がいいけど性格悪い人と(ry」的な話になってきたから、最初の内面の条件は外された物だと思っていた。
とはいえ、夫や子の為に良妻賢母になれるからといって、周囲の男性のために痩せるかどうかはまた全く別個の問題であると思うが。その二つに関係はない。あくまで自分は、痩せない人でも、夫や子の為に自分を律し、良妻賢母になれる可能性はあるといったまで。
デブ子はあくまで「めんどうくさいと痩せない」のでありその「めんどうくさい」は「自分のために」なのか「周囲の男性のために」なのかは分からない。そこまで条件が提示されていない。だからこの場合のデブ子の「他者のために自分を律することが出来る可能性」はゼロではない、ということ。他者のために自分を律することが出来る可能性がゼロで無い限り、良妻賢母になれる可能性はある。
体系を維持する人は、って、そもそもスレ子が体型を意識的に維持してスレ子になったとは限らない
もともとスレンダーな体質であるだけかもわからない
そして体型を維持していたとしても美容も必ず拘るというわけではない。相関性は多少あるかもしれないが「体系を維持しているなら美容も拘ってる」といいきれはできない。更に、美容に拘っているからといって美人であるとは全く限らない。もしそうなら日本女性はもうちょっと綺麗なはず……あいやまぁこれはおいておいて
自分の事に対して自分を律するのは難しくても、他人の為になら自分を律する事ができるという人はいる。
オタク=右 ドキュン=左 と仮定してみると、けっこう面白い。
オタク・・
外見から人生まで、何事も保守的思想。生身の女には良妻賢母を求める
傾向あり。「サクラ(orさくら)」「ナデシコ」「ヤマト」好き。
人生のレールを一度踏み外すと、ある意味ではドキュンより手に負えない
ドキュン・・
外見も人生も、何事に対しても武装革命的。武器(ナイフ)を携帯。
「個性」を主張するわりには、ラブアンドピースなどと、結局のところ
この両者が集う場所として、ゲーセンを見ると、なかなか面白い。
鉄ちゃんが群がった電車でGO、クラバー系ドキュンが群がったビートマニア。
両方愉しめる奴は、
「極右と極左のやることは、信念こそ違えど、行動は大して変わらない」
って言説に一致してたりして・・。
もっとも、安易には置き換えられない部分も多いが、少なくとも
これだけ反目しあう現状を考えるのには、面白い気がする。
匿名ダイアリーの id:20070718150956 を読んで思ったこと。
ひょっとしたら、自分の「はてな」本館((ここはあくまでも匿名で名前は書かないのが流儀なんだろうから、今の所は伏せておくけど))で同じネタ書く((下手すりゃ、コピペ?))かもしれないけど。
正直な所、男性が性的な視線で見られるという事に鈍感だというのはあると思う。
逆に言うと、そのあたりは社会的な。と言うか明治以降、男性が身体性を否定されつづけてきた日本社会のジェンダー観がかかってくると思う。
実際、戦前戦後と男性というのは労働をすると言う役割が強くて一部の「種馬」は逸脱した存在であったと言う暗黙の共通認識((っつーか共同幻想))があって、その中で、男性のリビドーというのは存在しつづけたわけで、その部分を「赤線」「青線」なんかや「お見合い」と言うのがガス抜き装置として作用していたんだけど、そこいらも社会的な部分から否定されて、残ったのは、「恋愛」を通じたセックスの回路だけになってしまったと言う感じがするんですよね。
逆に、女性の側も身体性を否定されていて、「良妻賢母」だ「貞操」だなんだと言うあたりで抑圧されてきていて、抑圧がきつかった分、逆にアメリカ文化が入ってきたときにハジける具合が早くて、女性は男性のセックスアピールを見る目も、自分のセックスアピールがどう見られているかという視点も「鍛えられた」
そういう意味では、ガス抜き装置がある程度作動している分、男性の方が鈍感な場合が多くなるのは必然だし、「性的な視線で見られている」と言う意識は、実は男性の場合は恋愛と直結している訳ですよね。
笑えないのは、男性の女性に対する性的な視線と恋愛が直結している訳ではない。と言うパラドックスがある事なんですけど。
それはともかく、実際の所、「恋愛資本主義」って言葉に代表される最近の状況ってのは、男性が、自分の性的魅力がどう見られているのか、敏感になりはじめていることなのではないかな。と思います。
「恋愛でモテること=自分の性的魅力があること」であると言う事を、直感的な部分で感じているのではないかと。
ただ、そこをまだ言語化できていないとか、自分の性的魅力も他人の性的魅力もを通り一遍の基準で見ようとしている辺りが、ジェンダーの縛りがまだ(最低でも男性には)かなりきつい状況から抜け出せていないのではないかな。とかおもうんですけおね。