はてなキーワード: イカ娘とは
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あてはまるのは6しかないアニメに興味のない人間だがイカ娘は大好きだ。
「けいおん」が嫌いすぎて夜も眠れないのだが最初に断っておくと「けいおん」のアニメはまったく見ていないし、原作も一巻を読んだだけなので、
以下は同じように「けいおん」もしくは萌えアニメの嫌いな人間が読んでちょっと溜飲を下げるぐらいしか価値のないゴミだということ言っておく。
「けいおん」の何が嫌いかと言って例えるなら町内の運動会をNikeが全面的にバックアップして、足型からあつらえたシューズやミリグラム単位で
軽量化したウエアを提供したということ。
そして選手たちのムカデ競争や玉入れなどを見ながら用具の効果や製品を使用している一流選手との関連性などを真剣に語っている人たちが気持ち悪い。
オリンピックやワールドカップでなくてもそれをやるのはせめて高校野球くらいからでしょ。
むしろ「(^ω^)ペロペロ」と萌えで片付けている人達のほうによっぽど好感が持てる。
原作を読んでまず思ったのは「この作品は共学の高校が舞台だったっけ」ということだった。
アニメ化にあたって女子高と特定されたようだが、すくなくとも読んだ範囲では作者は意図的にどちらか特定できない状態で作品を進めていたようだ。
つまり男子生徒や男教師が出てくる気配は微塵もないとしても主人公達のすぐ近くに男性の読者の視点が存在している可能性がありえということなのだ。
そして一巻の終わりの方で文化祭での初ライブの話があるのだが、この場面は舞台が共学か女子高かでは随分印象は違う。
共学であれば舞台でパンツ丸出しになった澪の気持ちに充分感情移入できる。しかしこれが女子高で同性だけに見られたのならショックは半分以下。
仮に父兄や他校の男子の前だとしても、日常で顔を付き合わせる異性でないと割り切りもできるだろうし、少なくとも同じ学校の男子生徒に見られた時の
ダメージには遠く及ばない。
アニメ化にあたって作品の一つの側面の可能性をばっさり切り捨てた制作会社が空気感を大切にしていますというのは多分悪い冗談なのだろう。
だいたいパンツ丸出しってなんだよ。漫画のその場面では構図になんの説得力もないし。
第一、初めてのライブで演奏の出来不出来や他人からの評価に落ち込まないでいられるってどんな天才たちですか。
逆にそこで落ち込んだり反省したりすることを描写をすれば、次のライブに向けて努力しようという流れになり、それは作品の世界とはそぐわないため
握りつぶすためのパンツでしょうか?。
とりあえず不愉快な気分にならないゆるい女子高生の世界としてはそれで十分だが、少なくとも限られた人間関係や事件や軽音部が舞台であるという
アニメ化によってそれらは解消したんでしょうか?。
でも、最初に戻るけど、例えそれらを解消して登場人物の行動に十分動機を持たせ、物語として隅々までつじつまを合わせ、なおかつ背景や設定を描きこんだ
原作では隠されていた登場人物の家族の問題やいじめや性の問題などが読み解けるようになって、まるで別の物語になるというのならともかく、結局のところ
侵略イカ娘!を見ています。イカちゃんかわえ~と思いつつ、海の家れもんがブラックすぎて素直に笑えない。原作は読んでないのであくまでもアニメの感想ですが、ブラック企業を肯定しているようなストーリーは勘弁してほしい。
知らない方のために内容について超簡単に説明すると、海を汚す人間を侵略するために、イカの姿をした「イカ娘」という女の子が海から地上にやってきます。しかし故意ではないが海の家れもんの壁を壊してしまったので、修理代を弁償するためにアルバイトをすることになる。ふざけながらもまじめに働くけなげなイカ娘を中心に、海の家れもんで巻き起こる騒動をおもしろおかしく描いています。
海の家れもんはイカ娘に仕事をさせるにあたり、修理代がいくらかかるか、時給がいくらかを説明する必要があると思うが、雰囲気的にはそのような説明がなされてるとは思えない。もちろんアニメでそんな細かいシーンを描写をする必要はないでしょうが、そのあたりの事情をわかってアルバイトをしている空気を出してほしかった。これじゃ、ブラックな職場で超低賃金で仕事をさせられてる人間は本当に何も知らないアホですよといって笑って楽しんでるみたいだ。
イカ娘は夏の話ですが、日が沈む頃まで仕事をしているようなので、1日最低でも10時間は仕事をしていると思われます。外で遊んでいるシーンもあるが、特に休憩時間が決められている様子ではなく、事実上休憩時間は無いと思ってさしつかえないでしょう。客が少ない時に目の前の海で遊んでOKと言われたとしても、拘束時間に変わりはないし。
舞台がどこかは知りませんが、仮に神奈川だとすると最低でも1時間750円程度はもらわなければ違法でしょ。9時間目からは時間外手当25%アップもつければ1日7800円程度にはなるはず。壁の修理代が5万円程度だったとしたら一週間も仕事をすれば返せる金額。さらに、イカ墨の無償提供を強要されているのもブラックすぎ。ちゃんと買い取ってやれよ。恐喝して金品を巻き上げるのと同じでしょ。
このアニメはブラック企業が労働者を生かさず殺さず奴隷のように働かせて儲けている姿、もしくはいじめっ子がいじめられっ子をいじめて喜んでいる姿を、ブラック側の視点に立っておもしろおかしく描いているように思える。イカ娘が悪い雇用者をこらしめるストーリーもたまには必要じゃなイカ?
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ようやく9巻を読み終えたので、という訳でもないが、ふと思った「よつばと!」と物語性について少し書きたい。もう似たような議論をしている人もいるかも知れないが。
まず、「よつばと!」を物語性があるか?という視点で考えていきたい。
もちろん、ストーリー性は薄いよね、というのが大抵の人の回答だろうと思う。
確かに、時間軸的には進展しているが、エピソードの連続であり、ストーリー性は薄い。
ただし、この漫画は「(この作者の前作であるあずまんが大王のような)日常系キャラ萌え四コマではない」事にも注目したい。平たく言うと、ページ数から考えて、「よつばと!」はオーソドックスなギャグマンガ(モテモテ王国やジャガー、イカ娘など)に近い構造をしている。つまり、ページ数が少なめで、非日常側にいる(ボケ役の)メインキャラクターの一人(この作品では、よつば)を中心に話が進むという構造である。
一つ思うのは、この漫画の非常に新しい点は、”ギャグマンガになっていない”事にあるのではないかということだ。
通常、ギャグマンガの場合、非日常側のボケ役が非日常的な行動を行い、ツッコミ役の常識人がツッコミを入れるという構造になっている。この「よつばと!」の場合は、基本的に、非日常側のボケ役を子供(よつば)が行っており、それに周りの大人達がツッコミを入れていく。
しかし、よつばは果たして、非日常側の人間なのだろうか?と考えた場合、(ちょっとおかしな所はあるけれど)子供は普通こんなものであると言ってしまえる部分もあるのではないだろうか?よつばは十分に日常側の人間であると言うことができるのではないか。ただし、子供は基本的に非日常側の人間である、という意見も説得力もあるけれど。
議論が混乱してきたので、言いたいことをざっくり言ってしまうと、ポイントは以下の点だと思う。
①子供(よつば)から見ると、日常が驚きに満ちた非日常に見える。
(ので、よつばの視点では、日常が冒険(=物語)に満ちあふれている)
②子供のいる日常は、子供という非日常を包含しているが、「その非日常性は、大人自身も体験してきたことである(誰にでも子供時代がある訳だから)」。従って、漫画を読む視点として、複眼的視点が生まれる。具体的には、非日常的なよつばを見ることで和んでしまう大人としての視点、もう一つは、自分が子供の頃の頃を思い出すノスタルジックな視点。
結局、「[誰にとっての]日常or非日常なのか」という視点の問題なのかも知れない。
例えば、銀英伝に出てくるヤンウェンリーが劇的な勝利を収めたとする。
ヤンウェンリー以外の作中人物はドラマチック性を感じるだろうが、ヤンウェンリー本人にしてみると、割と散文的な現実ではないだろうか。そして、非日常の中に日常を見る人間と、日常の中に非日常を見る人間という点で、ヤンウェンリーとよつばは、対照的であるし、その点が「よつばと!」の新しい点ではないかと思う。