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はてなキーワード: のど飴とは

2009-04-21

買えるわけがない

会社の近くの大きなドラッグストアのど飴探してたんだ。

のど飴のど飴

僕はつぶやきながら棚を巡ってた。

すると、うっかりコンドームのある棚の前に来てしまった。

用がないので通り過ぎようとすると視界の端に変な物体が…

ちょwwwなんでここにTENGA置いてあんのwwwしかもこのドラッグストア男の店員いないのにwww

買えるわけがない。

2009-04-10

仕事中、眠くて眠くて、苦しい。特に食後2時間くらい。

昨日なんか、化粧直しする道具を忘れて、最終兵器である、顔を洗うが出来なかった。それ位、昨日は眠かった。

うっかり便座に座ったまま、30分くらい寝てしまった位眠かった。

眠いと視点が定まらなくなるよね。怖い。目が上に行くんだよ。必死に目を戻して前を見ようとするから、多分、そんな自分はすごくキモイ顔をしてるんだと思う。白目むいてるだろうね。

幻覚みたいなのも見る。この間は、脚が緑に見えた。怖い怖い。

コーヒーとか、ブラックガムが駄目なので、本気で対処に困ってたら、今日解決した。

飴。それも多分のど飴がいい。舐めたら眠気が少し消えた。

これで、トイレで眠る事もなさそうだ。

2009-03-21

喉が痛かったので、頭痛薬を飲んだ。

 

 

 

 

 

喉が痛かったのだが、のど飴やのどスプレーがなく、かつ風邪ではない事もわかっていて、ちょっと前に空気の汚いところに長時間いたことから、炎症を起こしていることがわかっていた。深夜だし医者もあいていないし、薬局も同じ。また、医者に行くほどでもない。そこで、同じ鎮痛消炎効果を持つ飲み薬であれば、痛みを抑えてくれるという事はわかっていたし、ちょっと痛くてイライラする感じだったこともあり、その他の薬効が無く、単純な鎮痛効果成分だけを含んだ、常備薬の頭痛薬を飲んだ。

 

 

上を書けば、下の意味は大体の人は取れると思うのだけど、どうなんだろう。

2008-12-15

今年の風邪はのどに来る

今年の風邪は友人も私ものどに来ているようだ。

私は龍角散のど飴を愛用しているのだが、他に効く飴というと何があるのだろうか?

2008-11-05

南天のど飴の成分である南天は毒草らしい。しかし、少量であればその成分が薬効となって喉に効くそうだ。毒性学における至言「毒性は量の関数である」と言う奴である。ところで、南天は、その語感から「難(ナン)を転(テン)じる」縁起のよい植物とも言われてきたそうだ。

しかし、この植物の場合は単に名前だけの縁起物ではあるまい。実際に毒を使って喉を直すことによって難を転じているのだから。

2008-01-16

[]べたもの。

ブランチ-ホービスの食パン、ミディアム二枚+ハチミツブルーベリージャム

     ハチミツ味のシリアルをスキムド・ミルクで。

     ロビンソンズのマンゴー+リンゴスクウォッシュ

夕食  -焼きそば。ひたすらにマッシュルーム。低脂肪マヨネーズつき。

    ウーロン茶を多分750mlくらい。

    千草ののど飴

    

2007-12-06

中二病

中二病って概念は知ってるし、2chスレ紹介してるブログとかで「中二の頃こんな痛々しいことしてた」みたいなのを見て笑ったり、いわゆる邪気眼みたいなのを笑ったりしてるけど、

でもある日ふと思った。

自分って中学生の時、こう言う経験なかったんだよなあと。

邪気眼はまあ大げさにしても、そういういわゆる「イタい事をした経験」ってのが、実はないんだよなと。

でも、笑ってる。さも「あるあるw自分も昔こういうしてたw」的笑いで笑ってる。でも、したことないんだよな。

反抗期も、思えば特に無かった。親に「うるさいんだよ!」とか理不尽に切れるとか、一切無かった。

普通学校行って、まあちょっとだけ「授業めんどいw」とか言ったりして。した悪いことといえば本当はダメなのに学校のど飴を持っていったこととか、掃除適当に切り上げたとか、宿題を一日遅れで出したとか、そんなもんだった。

で、なんでかっていうと、そもそも中学の時点で既に、「イタい」っていう概念が皆に広まってたから(じゃないかと思う)。

ハジける前に、「そーゆーのイタい」って感覚が、何となく既に身についてしまっていたから。

だからなんか恥ずかしいこととかする前に、自然と「マンガキャラクターのまねとかしたら恥ずかしいしな…」的な感じで、自粛というと変だけど、自然と「そういうのはイタいからやめよう」って気になってた。今思うと。

でかといって大人しく完璧優等生かっていうとまあそういうわけでもなく、ちょびっとハジけるくらいはした。運動会でバカやったりとかそのレベルならしたけど、ある種それも「皆にドン引きされない程度のバカ」を演じてた、というような感じで、皆がガチに引かないことを分かっていてやっていたんだよな。

高二病ではあったかもしれない。「こんなことやってるのってイタいよなw」「ちょっと流石に引くわw」みたいな、クール気取ってるような、どこか「分かった大人ぶってる」ようなところはあった。今思うと、それはそれで痛いのだが、なんにせよ中二病ではなくて高二病的だった。

そんで高校生になったらどうしたかっていうと、中二病については、ちょっと前の学年の事だというのに「まあ、若い頃は皆やるから、ある意味仕方ないんじゃないかな?」「はしかみたいなものでさ。そういう時ってあるよ」みたいに更に「分かった大人ぶってるモード」が変に進化してしまった。バカにするんじゃなくて、「まぁ、あるよあるよ。俺らもあったよ」的上から目線。本当は別になかったのに。この頃になると痛い人を見てもバカにするんじゃなく、「まぁ…彼もいつかはイタさに気付くさ」とか「まあ、ああいう人もいるわな」的な視線になっていった。中学校のときは心の中でバカにしていた。

そんでそう気付いてから、そうやって反抗期も特に無く、他人に対して特別「イタい」行動をとったわけでもない、いわゆる暗黒時代があるわけでもなく、まあそれなりにそつなくやってきて、かといって超モテたとか、超リア充ってわけでもクラスの中心ってわけでもなくて、どっちかというとインドア派で、だけれどもイジめられたとかキモいとか言われたわけでもない……

そんな自分が、急激に恥ずかしくなった。

過去を思い出すと、そんな「そつなくやってきてしまった自分」が恥ずかしくなった。

終始分かった大人ぶってたことが、なぜか今、とてつもなく恥ずかしいと同時に、もう少しくらい、年相応にイタイタしくしていればよかった、とすら思う。そして今になってそれを後悔するのだ。「あぁ、なんで自分はあんなイタいことを。邪気眼なんて恥ずかしいぃいいい」とか思いたかった。なんていうか、変な話、「それをして自分は成長するはずだったんじゃないのか」という、「手落ち感」があるのだ。思春期に受けるべきだった洗礼を、自分は変に知恵をつけ、ネットを見て、回避してここまできてしまった。思春期に、その年相応にハジけることをせず、既に20代の如き落ち着きを(振りだが)見せ、「まぁ…こんなものだろ」とある種の諦めを早々に得て、…………単純に言えば、自分は思春期にして「老けてしまった」。そんなような恥ずかしさ、手落ち感がある。「老ける」なんてのは、それ相応の人生経験があるからこそできるのであって、自分みたいな若造がしていいものじゃなかったんだと気付いた。思春期に外面だけ「これをしたらイタい」「あれをしたらイタい」という情報だけ汲み取って、それを回避し、分かっている大人ぶって……

それは、逃げてただけじゃないのか。

正面から何かにぶつかることを。

そして思春期ってのは本当は、イタくても構わないから、後でイタかったことに気付いてもいいから、未熟でもいいから、とにかく何かに、真正面からぶつかってみる時期だったんじゃないのか。

例えば劣等感。例えば自尊心。例えば自己愛。などなど、そういったもろもろの、ある意味いくつになっても存在する人間の「イタイタしいポイント」に、いっぺんぶつかってみるべきだったんじゃないのか。

自分はそれから逃げた。無理矢理にそれらのイタイタしい精神部分にふたをしたり、「まあ、そういうもんだよ」と言う呪文をかけたり「自分には才能ないって知ってるし」というポーズを決めて、それらを封じ込めてきた。眼を背けてきた。一度も、真正面からそういう心に向き合ってこなかった。とことんまで追求することもなかった。

確かにそつなく人生送ることはできた。でもそれでいいのか?で、それで、そつなく人生送って、自分はどうするんだよ、どうしたいんだよ。そういった疑問が今頃になってふつふつと浮かび上がってきた。本来はこうしたものは思春期に終えていないといけないのかもしれない。いまさら浮かび上がる。いまさら自分は「イタく」なる。

こういう「熱さ」みたいなのを、恥ずかしいと思っていた。「それで自分はどうしたいんだよ!?」そうやって自分に叫んだり、無我夢中であがいてみたり、自分の可能性を信じてみたり、それに向かって頑張ってみたり、そういう「熱さ」は、自分の世代じゃちょうど「寒い」ことになってて、マジに「自分のやりたいことで悩む」とかはなんとなく恥ずかしい感じがしていた。「自分探し」とか言い出す前に、そもそも「自分探しなんていう若者最近多いけど、本当の自分なんてのは海外に落ちてるもんじゃねえよ」的な言葉を既に知ってしまっていて、それを見て、「そうだよな。自分探しなんてなあ(笑)」的にまた、深く考えることなく「分かってるポーズ」を自分は決めていた。何でもかんでも、「イタイタしいワード」が出てくるより先に、「そのイタイタしい行動についてのオトナの一般論」みたいなのを見てしまっている。その「イタイタしいワード」について自分で深く考える事も無く、「そうだよな(笑)」と「分かってる」振りをし続けてきた。

それが今になって、混乱している。それでいいのか。それでよかったのか。いや、過去をぐちぐちいっていてもしかたがない。でどうすればいいのか。自分はどうしたいのか?どう人生を生きたい?

そんなこと、今更考える事じゃないだろうといわれるかもしれない。

自分は、今更思春期が来たのかもしれない。

それでも、「分かっていた振り」を決めていた頃より、こうして真剣にぶつかる方が、なんというか、楽しい気がするのだ。

いや勿論、自分の嫌な所にぶつかるのだから、苦しさもある。けれど今まではただ封をして諦めていたところに、「希望を持ってもいいのかもしれない」というような希望が現れつつある。「イタいから、イタいからって今まで封印してたけど、いいのかもしれない」そんな希望みたいなものが生まれつつある。「枯れてる自分」を演出するのはもうやめる。イタくても寒くても熱いほうがいい。「枯れてる自分」を装っていると、確かにあまり傷つかないけれど、それは、最初から自分が水底に沈んでいるからってだけの話なんだ。傷つくのを恐れるのはもう……やめよう。

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