「教育勅語」という、
一つのある文化的・制度的背景を持ち、ある特定の意味合いを持って出された命令を肯定するかという大きな話と
その内容一つ一つを普遍的にどうこうするって個別な話と
分けたほうがいいんではないかなあって思う。
教育勅語を肯定することの問題性は、少なくとも現代の社会では「手続き」的に駄目だからだと思うし、
内容が仮に「改善」されれば教育勅語の形式のようなものはかまわないともとれるような主張は肯定し難いなあと。
内容なんて言い出したら憲法守れとまで書いてあるわけで。
Permalink | 記事への反応(1) | 19:15
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大量にやってその一部ならともかくあれを中心となると話がおかしくなる。 どのみち道徳なんて儒教仏教キリスト教その他各種偉人、大量の言葉からなるものだ。