ごみの分別が厳しいことで有名な横浜市で生まれ育ち、この度プラごみという概念が存在しない地域に引っ越した。
燃えるか燃えないか、ただそれでしか判断しない。楽だが少しずつ罪悪感に心が蝕まれていく。
燃えるか否かでごみをわけるのは、ものごとを善悪で判断するのではなく、その利益でしか判断できないということなのではないだろうか。
私はもう悪い人間だ。もう悪い人間なのだから何をしたっていいのだ。これ以上落ちることはないのだから。
でもプラごみと生ごみ混ぜるとプラごみが潰しにくくてスペース取るから結局分別してまとめて出してます。
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