「葬式を行うという行為に賛同しない人間は、葬式という行為に賛同しないことによって三つの側面、つまり自分自身から、他人から、社会から、じわじわと責められ続ける事になるのではないか?」
その通りだと思います。あなたがあなたの気持ちを大事にするのと同じように、周りの人もそれぞれの気持ちを大事にすれば、それらが一致しないところで軋轢が生まれるのは必定です。問題なのは、責め続けられることではなくて、責め続けられることをあなたが堪え難く思っていること、そして、それを自分に対する不当な扱いだと思っていることではありませんか。
でも、考えてみてください。あなたの親族や知人は、彼らの思っていることをあなたに述べているに過ぎません。もしかしたらその口調はあなたを責めているかもしれません。けれども、あなたは自分のしていることが他人から責められるようなことだとは思っていないのですから、これはもう、見解の相違というよりほかはないことです。だから、そういうことは言わせておけば良い。もし、あなた自身がそう言われることを堪え難いと思うなら、これはもう、あなた自身の問題です。周りの人に非難されることが自分の苦しさの原因であると思うなら、その先にあるのは、他人の口を封じることだけです。もちろん、自説を展開して説得を試みるのもいいでしょう。でも、相手を説得できなくてもそれは受入れざるをえませんよね。だって、あなた自身は自分の意見を変えるつもりはないんだから。だったら、周りの人の感性も認めましょう。
ちなみに、私もお葬式やお墓参りには何の意義も見出しませんが、行きがかり上参加することはあります。それらの行為は、死んだ人のためでもなく、ましてや自分のためでもなく、出席している遺族のためのものだと思っています。つまり、遺族に対する思いやりというところでしょうか。こんな気持ちでいることを知ったら怒る人もいるかもしれませんが、言わなければ分からないし、表向きは万事丸くおさまるので、私自身はそれで良しとしています。手を合わせる時は、何とも言えない気分ですが。