自分に職歴がないのも当然だ、と思わせてくれる書き込みですね
サービス業の仕事を請け負っている私に求められていたのは、「ユーザー・エクスペリエンス」=「顧客の体験性」を想像し、それを考慮に入れた行動だった。例えば、報告すべきことはすべきだが、顧客にとって意味の分からない余計な報告は、するべきではない。余計な報告で顧客を混乱させるべきではないのである(私はそれまで全ての状況を報告すべきだと思っていた)。相手の望んでいることを考え、相手が「万能な人間でない」ことを忘れずに適切な情報量を適切なタイミングで適切に提供するように努力する。
その作業の結果がvistaとoffice2007のインターフェースなのだろう。ベンダーからすると「ユーザーに歩み寄っている」つもりなのかもしれないが、実態としては「ベンダーのユーザー像にユーザーが歩み寄る」ことを余儀なくされることになる。
出前缶やばい。
これとampmのデリス便と西友ネットスーパーの併せ技で廃人化が加速。
やむを得ず外出予定が決まったときは、uniqlo.comとmuji.comで身なりを整える。
ちょっと気の利いたものが欲しいときは楽天。
ほんともうね、外とか出ないで生きていけちゃう。
非コミュ万歳。
もっと単純に、自分(と自分の周囲の親しい人)が殺される危険を少なくするための取り決めじゃない?
もうひとつは「死」そのものを忌避する本能、かな。
http://www.atmarkit.co.jp/fembedded/column/yoshida/yoshida02a.html
「薬といってぱっと頭に浮かぶものは何ですか。商品名でいってください」
私はとっさに「タイレノール」と答えた。
「では、タイレノールはどんなときに飲みますか」
「頭が痛いときに飲みます」
「そう、いままでわれわれは“頭が痛いからタイレノールをください”と指名買いができるお客さまを相手にビジネスをしていたんです。いわれたスペックを満たせばよく、そこでのヒーローはタイレノールを開発するエンジニアやそれらを高い品質でかつ低コストで作る工場の工場長でした」
「では、具合が悪くなったけれども原因が分からない。そういうときはどうしますか」
「病院へ行きます」
「病院は何をしてくれますか」
「レントゲン撮影をしたり、採血をしたりして、具合が悪い原因を調べ、病名を明らかにして、薬を出してくれます」
「それは医療というサービスが提供されたわけですね。その中身をこちらから指名したわけじゃない。求められるものがモノからサービスに変わったんです」
「求められるものがユーザー・エクスペリエンスに変わった」というのは、もはや手垢のついた言葉だ。
しかし、今現在でも、それをどれくらいの人間が実感しているかという話になると、とたんに疑問符がつくような気がする。
私も、初めて聞いたときには正直言って、ピンとこなかった。なんというか、それはそうかも知れないけれど、それほど重要なキーワードなのだろうか、毒にも薬にもならないような言葉ではないかと聞き流していた。要するに、理屈は分かるけれど、実感がないので、重要性が良くわからなかったのだ。
そして、この言葉の重要性に気づいたのは、仕事で悪戦苦闘しているときだった。私は、顧客の職場に常駐している、その辺によくいる一山いくらのIT業界人で、指示されればやるけれど、それ以上のことはできない(やらないのではなく)という典型的な人間の一人だった。そして、そういう若者が多くなったと嘆かれたりした世代の一人だった。
しかしながら、そういう仕事のやり方をしていると、必ず壁にぶつかる。私も例に漏れずに壁にぶつかった。上司に怒られ続け、顧客に怒られ続け、自分はなんて無能なのだろうと呪った。学生時代、周りの連中より真面目だと自認していたが、ここでは、そんなものは意味がなかった。求められるのは結果だけだ。どうすれば自分の無能をどうにかできるのかとライフハック的なものや自己啓発的なもの本にも手を出して片っ端から試してみた。が、望んだような結果は出なかった。(もちろん、このとき学んだノウハウが今、別の面で役に立っている部分ある。確かに無駄な経験はないのかもしれない。)
閑話休題。そんなわけで、私の悩みは続いていたのだが、ある日、ふと、ようやくなぞの一部が解けたような気がした。
要するに、私はIT業界の本質を誤解していたのである。考えてみれば、当たり前なのだが、IT業界は、昔から(そうずっと昔から)「サービス業」に分類される業種だったのである。決して「製造業」ではないのだ。
何が言いたいのかというと、サービス業の仕事を請け負っている私に求められていたのは、「ユーザー・エクスペリエンス」=「顧客の体験性」を想像し、それを考慮に入れた行動だった。例えば、報告すべきことはすべきだが、顧客にとって意味の分からない余計な報告は、するべきではない。余計な報告で顧客を混乱させるべきではないのである(私はそれまで全ての状況を報告すべきだと思っていた)。相手の望んでいることを考え、相手が「万能な人間でない」ことを忘れずに適切な情報量を適切なタイミングで適切に提供するように努力する。
思うに、その辺を早めに知る機会を作るのは重要なことかも知れない。
たとえば、一部のマスコミでよく取り上げる、勘違いをしている高齢独身女性の問題。
彼女たちの不幸は、「自分が心地よい体験を相手から提供される」ことには関心はあるが、「自ら心地よい体験を相手に提供する」ことには関心がないことだ。
非モテ問題(あるいは非コミュ問題)も同様だ。つまり問題の本質は上記の彼女たちと一緒であり、「自分が心地よい体験を相手から提供される」ことには関心はあるが、「自ら心地よい体験を相手に提供する」ことには関心がないことなのだと思う。
もちろん、才能のやる人間は、自己中心的に好き勝手に生きても、問題ないだろう。しかし、そうでない大多数の人間が、豊かな社会で自己中心的に青春時代を送った場合、厳しい社会に出てそのギャップに苦しむのである。
「相手の体験性を想像し、それを考慮に入れた行動」というのは、「慣れ」と「技術」で、ある程度なんとかなるものだと思う。もちろん、ストレスはたまるし、自分の本音を吐き出す場所というのは必要だが、凡人の場合、そういうノウハウをまず身につけないとまず「お話にならない」というのが、厳しい社会の現実なのだと思う。
よく考えると、一時期、日本のゲーム業界の勢いがなくなったのも、「プレイヤーの体験性を想像せずに、フォーマットにのっとって機械的にゲームを作った結果」なのだと思うし、使えないアプリや、ソリューションはそういうことが原因で使えないのだと思う。(と、つい万能的に使ってしまったが)
しかし、繰り返すが、「求められるものがユーザー・エクスペリエンスに変わった」というのは、もはや手垢のついた言葉だ。
そして、ふと思ったのが、下の記事。
> 豊かな時代の究極の楽しみは「クリエイトすること」、それがWeb2.0
> http://d.hatena.ne.jp/michikaifu/20070419/1176961765
クリエイターは、相手の体験性を想像し、それを考慮に入れて作品を作らなければ、良い作品は作れないと思う。要するに、あらゆる人間がクリエイターになり、良い作品を作ろうと努力していけば、「相手の体験性を想像し、それを考慮に入れた行動」ができる人間も増えるかもしれない。都合のいい考えかも知れないけれど、そんな社会を期待してしまった。
ろくな仕事を任せられないから、業務全体に対する認識がいつまでたっても持てない。
業務全体に対する認識が無いから、非現実的な理想論ばかり言う。
一度責任のある仕事を任せてこのループを断ち切りたいのだが、何かあった時にこっちでリカバーできるようなちょうどいいリスクの仕事が無くて、結局ろくな仕事を任せられない。
そもそも飛行石の機能として、石自体が(ここで散々語られた何かの方法で)浮くだけじゃラピュタは維持できないし、ペンダントは首からすっぽ抜けてシータは墜落死。「石の周囲に何らかの浮上フィールドを張っている」機構も合わせて必要なのだ。
あるいは「一定範囲内の任意の対象(≠周囲の全て)に引力を及ぼす機構」かもしれない。これがあれば城の建材は石に引っ張られて浮かぶしシータはホバリングするし、ラピュタ周辺の気圧もこれで維持されているのでは(重要)。そもそも滅びの呪文で何故「城全体」が崩壊したのか? それはラピュタの建材は飛行石の方向が『下』になるように組み上げられていたからで、その石に向かう引力機構が消滅したため、本来の重力方向という想定していない方向に負荷が掛かって砕け落ちたのだ。
で、滅びの呪文によって解除されたのは建築材に対する引力影響指定のみではないかと推測。浮上能力がそのままなのは作品を見ての通りだし、急減圧でパズーやシータが死ななかったことを見ても、気圧維持圏についても解除されなかった模様。これなら巨大樹&飛行石が結構な高度に行っちゃっても当面は大丈夫。後は巨大樹と動物たちが、太陽光だけでバイオスフィアを築けるかに掛かっている。雨雲ははるか下方だから水の補給が一番ネックだ。増田ねこも生き延びられれば増田も猫鍋ファンも大満足なんだけどねー。
その凍った心が、彼女と一緒に溶けるといいね
昔は、非モテだがモテむかつくなんつってルサンチマンを露にする奴なんか見かけなかったけどね。
モテル奴はモテルし、モテない奴はあーだこうだ言わずそれを謙虚に受け止める、恥ずかしくて口にもしない。
逆に金持ちへのルサンチマンは日常によく見られたと思う、
昔は金持ち≒悪の図式が確かにあったのだが
今はそういうのがなくなったように思う。
人非人 ←真向唐竹割にされた人間の頭部。