なぜ、そこでひぐらしメソッド。
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マスダ・アノニーとマスダ・イオリは
前回までのあらすじ
増田で何か書いて、その記事が外部で評価される。記事を書いた人間には報酬としてはてブへのエントリーやトラックバックが与えられる。そして、増田全体としては秀逸なまたは奇抜な記事が外部で取り上げられることにより増田の存在が外部へアピールされる。
増田では個人としてのアルファブロガーは生まれ得ないが、増田親衛隊(熱狂的な増田利用者)や増田民(一般的な増田利用者)が増田パワー(記事)を注入することによって、増田は一個の人格を持った存在として動き出すのであった。
「ちょっと頑張ってまじめな日記書いたけどそもそも誰も読んでないダイアリーだからこっちに書きゃよかった」と書きにきたのに既に書かれていた。
ふと思ったんだが、はてなの最果てで細々と「ブクマがどーのこーの」言うより、ここで書いた方がよっぽど見られるよな。
何か、言いたいことがあるけれど、自分のはてだがあまり読まれていない人は、ここでちょろっと言って、カミングアウトするのってどーよ。
嬉しいんだけど意外と書くことないんだよな…。
ブログって良くも悪くも続けてると書き手の思考や嗜好パターンが蓄積されていったり文体が固定化したりして、キャラが立ってくるじゃん。
読者が増えたり、知り合いにばれたりすると、誰かに強制されているわけではないんだけど、もう自分がその場所で書けることがどんどん限定されていってる気がしてくるんだよね、セルフメンタルブロックって言うか。で、書きたいことと書けることの距離がどんどん離れていく。
増田のいいところは、そういったしがらみがなくて、自分がそのとき書きたいことを何の脈絡もなく書けるとこ。
ハンドルネームを使うことであわよくば手に入るはずであったウェブ上での名声は得られないけれど、自分が言いたいことをまじりっけなしで見てもらえる増田はライティングジムとしては最適です。
面白いことに、映画が好きだといいながら、出てくる人物の顔すら識別できないひとがけっこういる。たとえば、侯孝賢の『悲情城市』(1989)を見て、人物関係がわかりにくいというひとがいます。あれは何の役だったっけって聞かれて不意に驚くということがありますが、侯孝賢の場合は、顔を見ていれば、間違いっこない。勿論、そのように演出されている場合とそうでない場合があるわけです。よく挙げる例ですけれど、スピルバーグの『プライベート・ライアン』(1998)の墓地に出てくる顔は、みんな忘れちゃっていい顔でしょう。どれひとつとして、その顔を憶えていなければその後のフィルムの流れにすがりつけないという記号ではなく、どれも忘れてしまっていい。これはスピルバーグに対してどうしても最後まで残ってしまう私の疑問なんです。つまり、シナリオ通りにその画面を撮ったけれども、あそこに出ているひとで憶えなければならない顔がまったくない。だから、あの場面はほとんど見る必要がなく、劇的状況を理解すればそれでよい。しかし、そうした場面を演出することに、むなしさはないだろうかという疑念が最後までまといついて離れません。
flowerwild.net ?? 蓮實重彦インタビュー──リアルタイム批評のすすめvol.1
○○○○○○と××××××の会話。
[22:01:38] ○○○○○○の発言: http://www.youtube.com/watch?v=5KY15m7-eOg
[22:01:58] ○○○○○○の発言: Wiiは進化かはたまた地雷か
[22:02:11] ××××××の発言: まぁいいんじゃない
[22:02:13] ××××××の発言: 興味ないけど
[22:02:27] ××××××の発言: これ
[22:02:29] ××××××の発言: 蓮實だよ
[22:02:40] ○○○○○○の発言: ん?
[22:02:43] ××××××の発言: さっき引用したじゃん
[22:02:50] ××××××の発言: これがスピルバーグなんだよ
[22:02:56] ××××××の発言: あと、DSのタッチペンもそう
[22:03:07] ××××××の発言: こんなの銃じゃないじゃん
[22:03:15] ××××××の発言: つまり、スポーツニュースといっしょなんだよ。スポーツそのものを観ずに、スポーツニュースで結果だけ観てスポーツを観たと思いこんでるのと同じ
[22:03:19] ××××××の発言: こんなのゲームじゃない
[22:03:32] ××××××の発言: ゲームをやってる俺、という感覚とたわむれてるだけ
[22:03:41] ××××××の発言: つまり、蓮實だよ
[22:03:46] ××××××の発言: だから蓮實はえらいんだよ。
[22:04:05] ××××××の発言: ゲームって、たとえば十字キーとA・Bボタンという、およそリアルからかけ離れたインタフェイスに自覚的であることが基礎じゃんすか。それが、いまや調子にのって、棒っきれをふりまわすことが「リアル」だとでも思ってんの?バカじゃね
[22:04:09] ○○○○○○の発言: ハスミン
[22:04:16] ××××××の発言: あれで銃だとおもいこまないといけないわけじゃん。でも銃じゃないじゃん
[22:04:18] ××××××の発言: それって
[22:04:22] ××××××の発言: 飲ミニュケーションだよ
[22:04:36] ××××××の発言: つまり「たまにはバカにならないといかんよ!ガハハ」
[22:04:38] ××××××の発言: ってことだよ
[22:04:42] ××××××の発言: ほんと無意味
[22:04:43] ○○○○○○の発言: いやゲームだよ
[22:04:58] ××××××の発言: そんなの団塊の世代とかで十分だよ!!
誰でも実験できて,大量生産・大量試験できて,状況さえ整えれば誰でも扱えるような技術が,世の中に広まる⇒ゆえに正しい,とされるのは,科学技術の性質であると同時に資本主義の性質でもあるなあと思う.だから「みんなの前で実験してみろ!」という立場は,科学技術的な立場であると同時に資本主義的な立場でもあるのだろう.
逆に,資本主義でなくて区切られた世界であれば,例えばソ連でルイセンコ主義なんていう似非科学が流行ったように,万人が実験できるわけではないことでも広まってしまったりする.別段,その(科学)技術で,安価に大量生産して世界制覇してやるという考えでないのならば,ヤマギ○ズムでも大躍進政策でもご自由に,ということになる.まあ,ルイセンコ主義や大躍進政策の場合は,(数百万人,数千万人の)「みんな」の前で実験してみて,それでも暫くは誤りを認めなかった場合の,反面教師としても重要な事例なのだけれど.ただ,それらは世界中の人を納得させるには至らなかったわけだ.
科学技術と資本主義のコンボは,「みんなの前で実験する」ことを行動原理として,「正しさ」を生産してきた.もちろんそれは効率のいいやり方で,だからその方法論は今後も力を持ち続けるだろうと思う.ただ問題なのは,サリドマイド禍のように,「みんなの前で実験する」ことが結果として非常にリスキーなことになってしまう場合だ.そういう危険性もあるよという意味では,「みんなの前で実験する」メソッドには,弱点が確かにあるとは思う.
「Cセット」「Cセット」「Cセット」「うどん」「カレーライス」「Aセット」「Aセット」「カレーライス」「Bセット」「うどん」「うどん」「うどん」「うどん」「Dセット」「うどん」「Cセット」「Aセット」「Cセット」「Dセット」「カレーライス」「Cセット」「うどん」「カレーライス」「Dセット」「Dセット」
――90年代を通して聴いた音楽は?
「90年代は勝ってても全部売っちゃってる。90年代に抜けの悪かったものは、今興味の対象としてあるかも。そういえば90年代以降のメルツバウに何かあるんじゃないかという気がする。完全に訳の分からないものになってるじゃない。いつまで続くんだろうと思うと、もう我慢だよね。表現の戦いは続くんだなあと思って。要するに趣味じゃないんだよ。趣味というのは、完全に経済活動の中に取り込まれてるわけでしょう。メルツバウは趣味じゃないでしょ。『どういう感覚でこれが良いと思うんですか?』ということでしょ。それは批判じゃないよ。戦いなんだよ。趣味に走るひとは状況に興味がない人。状況からほど遠いのはオタクなんだよ、やっぱり」
――90年代はオタク=趣味の時代でした?
「趣味の時代だった。80年代はまだ風俗が、アニメ以外は趣味じゃないものとして成立してたんだよ。90年代はそれが消費活動としての趣味に確立されたんだけど、それをぶち壊すときですよ。僕はそのつもりですよ。趣味が何なのかもうわからないじゃないですか」
僕は三十歳になっていた。目の前にはこれからの十年間が、不穏な道としてまがまがしく延びていた。
(中略)
三十歳――それが約束するのはこれからの孤独な十年間だ。交際する独身の友人のリストは短いものになっていくだろう。熱情を詰めた書類カバンは次第に薄くなり、髪だって乏しくなっていくだろう。でも僕の隣にはジョーダンがいる。この女はデイジーとは違い、ずっと昔に忘れられた夢を、時代が変わってもひきずりまわすような愚かしい真似はするまい。車が暗い端を渡るとき、彼女はいかにもくたびれた様子で僕の上着の肩に顔をこっそり寄せた。そして誘いかけるように手を押しつけてきたとき、三十歳になったことの暗い衝撃は、僕の心から遠のき霞んでいった。
http://anond.hatelabo.jp/20061114081225
あしあとついてるし。
あ、ごめん。
こういうこと書くのは無粋だね。
以降は気をつけることにするよ。