誰でも実験できて,大量生産・大量試験できて,状況さえ整えれば誰でも扱えるような技術が,世の中に広まる⇒ゆえに正しい,とされるのは,科学技術の性質であると同時に資本主義の性質でもあるなあと思う.だから「みんなの前で実験してみろ!」という立場は,科学技術的な立場であると同時に資本主義的な立場でもあるのだろう.
逆に,資本主義でなくて区切られた世界であれば,例えばソ連でルイセンコ主義なんていう似非科学が流行ったように,万人が実験できるわけではないことでも広まってしまったりする.別段,その(科学)技術で,安価に大量生産して世界制覇してやるという考えでないのならば,ヤマギ○ズムでも大躍進政策でもご自由に,ということになる.まあ,ルイセンコ主義や大躍進政策の場合は,(数百万人,数千万人の)「みんな」の前で実験してみて,それでも暫くは誤りを認めなかった場合の,反面教師としても重要な事例なのだけれど.ただ,それらは世界中の人を納得させるには至らなかったわけだ.
科学技術と資本主義のコンボは,「みんなの前で実験する」ことを行動原理として,「正しさ」を生産してきた.もちろんそれは効率のいいやり方で,だからその方法論は今後も力を持ち続けるだろうと思う.ただ問題なのは,サリドマイド禍のように,「みんなの前で実験する」ことが結果として非常にリスキーなことになってしまう場合だ.そういう危険性もあるよという意味では,「みんなの前で実験する」メソッドには,弱点が確かにあるとは思う.
と書いてみて気づいたが,「みんなの前で実験する」メソッドで暴走するのは,資本主義でも社会主義でも同じだな. 科学技術とのタッグを組んで大量生産と世界制覇を目指す思想という..