「舟橋」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 舟橋とは

2022-06-23

浅野長政赤穂浪士浅野内匠頭先祖

逸話

小田原征伐において、秀吉沼津城に進軍の際、案内役の家康家臣の伊奈忠次舟橋を架けた。しか秀吉は、側近の三成の言に従い、用心して渡ろうとしなかった。そこで長政が手勢を率いて先に渡り舟橋安全性証明したという(大道寺友山の『異本落穂集』より)。

同じく小田原征伐の際、秀吉は、家康居城駿府城宿泊する予定であった。しかし同じく三成が「駿河大納言殿(家康)は北条左京(北条氏直)の岳父であり、内応している疑いがございます」と述べた。すると長吉は「大納言殿はそのようなことをされる御方ではない。そんな偽りを信じてはいけませぬ」と秀吉に直言した。秀吉長吉言葉を容れて駿府城に入城し、家康から手厚いもてなしを受けたという(『異本落穂集』より)。

秀吉文禄の役で自ら朝鮮に渡ると言い出した際、三成は「直ちに殿下秀吉)のための舟を造ります」と述べたが、長吉は「殿下は昔と随分変わられましたな。きっと古狐が殿下にとりついたのでしょう」と述べた。秀吉激怒して刀を抜いたが、長政は平然と「私の首など何十回刎ねても、天下にどれほどのことがありましょう。そもそも朝鮮出兵により、朝鮮8道・日本60余州が困窮の極みとなり、親、兄弟、夫、子を失い、嘆き哀しむ声に満ちております。ここで殿下が(大軍を率いて)渡海すれば、領国は荒野となり、盗賊蔓延り、世は乱れましょう。故に、御自らの御渡海はお辞めください」と諫言したという(『常山紀談』)。

石田三成について研究している白川亨は、関ヶ原の戦いの前の長政謹慎事件は、長政や前田利長を三成らの反家康から分離させようとした家康陰謀挑発であるという説を提唱している。長政の嫡子・幸長は三成と犬猿の仲だったため、長政は両者の間で苦悩していたという。

甲州八珍果を定め、甲斐国果物栽培奨励したという説があるが、正確なところは明らかになっていない[8]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E9%87%8E%E6%B0%8F#%E6%AD%B4%E4%BB%A3%E5%BD%93%E4%B8%BB

名臣だなあ

ゲーム信長の野望ステータスには出ない能力があるとみられる

2016-03-06

[] 浮橋

(うきはし)

水上いかだや多くの舟を浮かべ、その上に板を渡した橋。舟橋(ふなばし)。

https://kotobank.jp/word/%E6%B5%AE%E6%A9%8B-439188

2016-03-04

[] 舟橋

舟橋(または船橋、ふなばし、英語では“pontoon bridge”)は、河川の中に並べた船の上に板を敷いて造る仮設橋。

  

木曽川に架かる「起(おこし)の舟橋」の場合は、舳先を川上に向けて川幅いっぱいに船が並び、錨で川底に留められる。

船の上には横板が渡され、さらに板のずれや上下・左右の揺れを抑えるため、鉄鎖・藤綱なども渡される。

船同士は藁綱によって固定され、岸や川中の大杭に留められる。両岸には番小屋を作り、通行当日には護衛が欄干のように

橋上に立ち並んだ。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%88%9F%E6%A9%8B

 
ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん