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2023-12-01

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大田の戦い


大田の戦い(テジョンのたたかい)は、朝鮮戦争中の1950年7月16日から20日にかけて、大田付近戦場としてアメリカ合衆国朝鮮民主主義人民共和国北朝鮮)の間で行われた戦闘である

アメリカ24師団は、第21連隊第1大隊を基幹とするスミス支隊(C・B・スミス中佐)を烏山において全般前哨として、第34連隊平沢安城を確保させていた。

しかし、スミス支隊は烏山の戦いにおいて敗北し、また命令錯綜から、第34連隊も壊乱に近い状態で後退することとなってしまい、最初抵抗線は大した抵抗も示さずに放棄されることとなってしまった。

最終的に、第24師団は、兵力の45%(7,305名)、装備の60%を喪失し、その戦力を事実上喪った。またディーン少将戦死したもの認定され、当初ADCOMの指揮を執っていたチャーチ少将が後任とされた。

大田は、全羅南北道と慶尚南北道に向かう主要経路の分岐点という、交通要衝であったこから、ここを奪取されたことは、極めて重大な意味を持った。

第8軍司令官ウォーカー中将は、大田での戦闘ほとんど壊滅した第24師団を後方で再編成に回し、第1騎兵師団には永同を、第25歩兵師団には尚州正面を防御させることとした。

第1騎兵師団は、23日より交戦に入り、31日までの遅滞戦闘で、北朝鮮軍の戦車部隊ほとんど再起不能に陥らせ、また2000名の損害を与えたが、小白山脈において北朝鮮軍を阻止するという目的は果たすことができなかった。

また、小白山脈の西・南麓を守る韓国軍も、壊乱には至らないまでも、じりじりと後退を続けていた。

これらの情勢から7月31日ウォーカー中将は、錦江から白山脈における線での防御を断念し、釜山をめぐる洛東江の線で円陣構成しての防御を決定した。

8月の頭より、北朝鮮軍は釜山の防御円陣への攻撃を開始し、1ヶ月以上に及ぶ釜山橋頭堡の戦いが幕を開けることとなった。

 
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