2020-06-14

さて、人間友達というものは、裕福な友達にへつらい、ご機嫌取りの友達を重視したがる。思いやりがあることと、嘘の無いことは、実際には必ずしも重視されない。だから利己的な人間を友とするよりは、糸竹・花月のような楽器及び自然の風物を友としたほうがマシなのである。人に雇われた従者は、報酬を弾んでくれて、自分を贔屓してくれる主人を重視するものであるしかし、自分を育ててくれる慈愛のある主人や安らかで静かな生活などは望まないのである。だから、従者を雇うのはやめておいて、自分自身を従者にするほうがまだマシなのである

では、どんな風に自分を従者にするのかというと、しなければならないことがあれば、すぐに自分自身を使ってするということである。手間がかかるように感じるが、人を雇ってその人のことで気疲れするよりかはずっと気楽なのだ。もし、歩きが必要なのであれば、自分の足で歩けば良い。足が疲れるからといっても、馬・鞍・牛・車だと乗物を手配して気づかれするよりかはマシである。今、従者と乗物の二つを話題にしたが、この二つの働きを、自分ひとりの身体を使って分担すれば、何の気づかれも要らなくなる。従者(奴婢)に当たるのが手で、乗物に該当するのが足である。手も足も自分の体の一部なので、当然、自分の思い通りに動かすことができる。

身体については、心がその疲れについて知っているので、疲れた時には休ませ、元気な時には働かせるようにする。働かせるといっても、度が過ぎるようではいけない。気分が落ち込んでいる時には、心を働かせる必要はない。何といっても、こまめに歩いて、こまめに身体を動かすのは、心身の養生にもなるのである。どうして、何もせずに休み続けるのが良いのだろうか、いや、健康にも良いものではない。従者を雇って人を使うというのは、ある種の罪業でもある。どうして他人の力を借りなければならないのか。自分でできることであれば、自分でやるべきなのだ

衣食についても同じことである。藤の蔓で作った粗末な衣服でも、麻布で作った粗末な布団でも、手に入ったものだけで身を覆うようにする。食べ物も、野原に生える嫁菜を摘んだり、山の木の実を採ったりして、細々と命をつないでいけばいいではないか。人の付き合いがないのだから、みすぼらしい姿を恥じて後悔することなどもなくなる。食べ物が入手しづらいので、粗末な食事でも美味しく感じられるようになる。こうした粗衣粗食の楽しみは、裕福な人たちに向かって言っているのではない。

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