はてなキーワード: 花月とは
出てくる感想の筆頭が「味が強い」だと思う。美味しいとか好みの問題はさておき、味が強い。
味覚の受容体めっちゃ刺激されてるし、風味も嗅細胞をめっちゃ刺激してくる。
それも塩や油※の力を借りない状態でだ(おそらく調整としては使われているが本体ではない。※嘘かも)
ハッキリ言ってスープ単体の二郎なんか比較にならないくらい「味が強い」のだ。
(しょっぱいという部分では家系や二郎インスパイアが勝ることもあるだろうが)
俺はフランス料理には詳しくないのだが、おそらくスープ単体で成立するほどの旨味と濃度の抽出に成功しているのだと思う。
レガシーなラーメンではスープ(素材の抽出液)とカエシ(醤油などの混合液)でスープは構成されていたが、
昨今では香味油が当然のように使用される。鶏油(ちーゆ)などが有名だが、牡蠣や煮干しも活用されている。
これまでの原材料費だととても使えなかった食材をコストプッシュ名目で使えるようになった結果、風味が大きく強化された。
価格を1000円にフォーカスしたラーメンに、既存のラーメンは味では太刀打ちできない。
固定客を囲い込むとか、二郎系家系のようにジャンルのファンを囲い込むとかしないと生き残りにくいだろう。
ただ天下一品や花月嵐みたいなチェーン店もしっかり値上げしてくれているので、浸透すればある程度緩和すると思われる。
個人的には美味いものが食えるようになった現環境には感謝しかない。
じゃあどんなもんなんじゃいという諸兄のために1つの例を挙げてみる。
いきなりラーメンではなくつけ麺なのだが、「味が強い」代表といえばこの店だ。
麺を500g食えるならスープを2種類つけてくれるので食べ比べもできる(辞めてたらごめん)
とにかく素材の味がグワっと押し寄せてくるので、苦手な人は本当に苦手だと思う。
ある程度並ぶのは覚悟がいるが、1つのイベントと思って訪問してみてはいかがだろうか
(この欄はブクマが付いたら消す。これ以上並ばれたら困る)
M-1グランプリでの漫才の歴史は松本以前、以後に分かれるの惹句は盛りすぎ。ダウンタウンの漫才はさほど斬新でもそこまで面白くもなかった(勿論、新春ヒットパレードの外ロケで披露した2分間漫才を初見の所ジョージが絶賛するほどの力量はあった)。彼らの醍醐味はコントでより発揮される。「半笑い」という言葉に代表される日常のエアポケット、気まずい空気を言語化、表現(芝居)で笑いに昇華した。(ドリフやとんねるずのような)大掛かりな、特異な設定に頼らず飛翔と着地をやすやすと熟す。華丸大吉はごく初期の妖精コントに衝撃を受けて笑いを目指したという。斬新な世界観を伝えるためのメジャーリーガーのような細かな調整、テクニックを重視したコンビでもあった。中川家が一般人ものまね(新聞勧誘員の夫と行動を共にする妻)を初披露した時(明石家マンション物語)、その目新しさ、完成度に共演の有田上田、土田らは文字通り震え上がったのだが、さんまはこんなものは全国ネットで通用する芸ではないとクスリともしなかった(後にさんまが中川家に夢中になるのはご存知の通り)。ダウンタウンは修業時代にたまに花月の舞台に立ち、団体客のおっちゃんおばちゃんを爆笑させていたという。初見を独自世界に導く技術を備えていたのだ。さんま紳助巨人、上沼恵美子が初見で才能を見抜いたというが殊更自慢するような話ではないだろう。
ダウンタウンがいなくても(或いは当初の予定通り松竹入りしていたら)サンドウィッチマンや猿岩石、霜降り明星、トゥナイトは存在しても、バナナマンや日社など後続のNSC出身者は世に出れなかったかもしれない。「日本のお笑いの歴史は松本人志以前、以後に分かれる」は決して過言ではないのだ。
最近でも「キングオブコントの会」でオオボケ枠だった東京03豊本を進行役、ツッコミ役で機能させ、ライス関町の存在自体をフューチャーするといった見事な手腕を見せた。
増田が初めて彼らの才に舌を巻いたのはNHKが東西の若手を集め、お題で即興漫才をするコーナーで披露した漫才コント。浜田がトラックドライバー、松本は夜道に佇む怪しげな女という設定。僅か一分あまりの漫才が二本。その斬新さ、面白さ、完成度は同じ若手は勿論、ゲストの先輩芸人もおそらく、一手も間違いがない、将来は貴方のライバルとなると大山康晴が断言した羽生善治少年を見る谷川浩司の心境だったと思われる。
とりとめもなく長々と書いたが「一人ごっつ」まで視聴していた浅田彰(今年は眼鏡が流行る)あたりが解説、言語化してくれたらなあと思う。
この頃のでき事
3月2日 - キヤノンが「EOS650」を発売。同じ日には旭光学工業が「ペンタックスSFX」を発売。
3月3日 - 武田薬品工業が「アリナミンV-DRINK」を発売。アリナミンシリーズでは初の栄養ドリンク。
3月5日 - 岩手靖国訴訟で、盛岡地裁は首相の靖国公式参拝合憲判決。
3月9日 - トヨタ自動車や東京電力などの出資で日本移動通信(IDO)設立(現在のKDDIの前身)。
3月17日 - 朝日麦酒が日本初の辛口ビール「アサヒスーパードライ」を発売。
3月18日 - 神戸市営地下鉄西神・山手線の学園都市駅 - 西神中央駅間が開業し全通。
3月18日 - 舞鶴若狭自動車道の丹南篠山口IC - 福知山IC間が開通(舞鶴若狭自動車道では最初の開通区間)。
3月21日 - 中曽根内閣が佐藤内閣・吉田内閣に次ぐ戦後3位の長期政権へ。
3月22日 - アップルコンピュータが「Macintosh II」と「Macintosh SE」を発表。
3月23日 - 予讃線高松駅 - 坂出駅・多度津駅 - 観音寺駅間、土讃線多度津駅 - 琴平駅間が電化(四国では初の電化)。
3月28日 - シャープがパーソナルワークステーション「X68000」を発売。
3月30日 - 安田火災がゴッホの「ひまわり」を53億円で落札する。
3月31日 - 三井物産マニラ支店長誘拐事件の被害者がフィリピン・ケソンで誘拐から137日ぶりに釈放される。
3月31日 - 吉本興業の劇場・なんば花月(大阪市南区。現中央区)が閉館、4月から近隣に新築したなんばグランド花月にその役割を譲る。 http://kansou-review.com/maisonikkoku-comic-155/
。だから、利己的な人間を友とするよりは、糸竹・花月のような楽器及び自然の風物を友としたほうがマシなのである。人に雇われた従者は、報酬を弾んでくれて、自分を贔屓してくれる主人を重視するものである。しかし、自分を育ててくれる慈愛のある主人や安らかで静かな生活などは望まないのである。だから、従者を雇うのはやめておいて、自分自身を従者にするほうがまだマシなのである。
では、どんな風に自分を従者にするのかというと、しなければならないことがあれば、すぐに自分自身を使ってするということである。手間がかかるように感じるが、人を雇ってその人のことで気疲れするよりかはずっと気楽なのだ。もし、歩きが必要なのであれば、自分の足で歩けば良い。足が疲れるからといっても、馬・鞍・牛・車だと乗物を手配して気づかれするよりかはマシである。今、従者と乗物の二つを話題にしたが、この二つの働きを、自分ひ
さて、人間の友達というものは、裕福な友達にへつらい、ご機嫌取りの友達を重視したがる。思いやりがあることと、嘘の無いことは、実際には必ずしも重視されない。だから、利己的な人間を友とするよりは、糸竹・花月のような楽器及び自然の風物を友としたほうがマシなのである。人に雇われた従者は、報酬を弾んでくれて、自分を贔屓してくれる主人を重視するものである。しかし、自分を育ててくれる慈愛のある主人や安らかで静かな生活などは望まないのである。だから、従者を雇うのはやめておいて、自分自身を従者にするほうがまだマシなのである。
では、どんな風に自分を従者にするのかというと、しなければならないことがあれば、すぐに自分自身を使ってするということである。手間がかかるように感じるが、人を雇ってその人のことで気疲れするよりかはずっと気楽なのだ。もし、歩きが必要なのであれば、自分の足で歩けば良い。足が疲れるからといっても、馬・鞍・牛・車だと乗物を手配して気づかれするよりかはマシである。今、従者と乗物の二つを話題にしたが、この二つの働きを、自分ひとりの身体を使って分担すれば、何の気づかれも要らなくなる。従者(奴婢)に当たるのが手で、乗物に該当するのが足である。手も足も自分の体の一部なので、当然、自分の思い通りに動かすことができる。
身体については、心がその疲れについて知っているので、疲れた時には休ませ、元気な時には働かせるようにする。働かせるといっても、度が過ぎるようではいけない。気分が落ち込んでいる時には、心を働かせる必要はない。何といっても、こまめに歩いて、こまめに身体を動かすのは、心身の養生にもなるのである。どうして、何もせずに休み続けるのが良いのだろうか、いや、健康にも良いものではない。従者を雇って人を使うというのは、ある種の罪業でもある。どうして他人の力を借りなければならないのか。自分でできることであれば、自分でやるべきなのだ。
衣食についても同じことである。藤の蔓で作った粗末な衣服でも、麻布で作った粗末な布団でも、手に入ったものだけで身を覆うようにする。食べ物も、野原に生える嫁菜を摘んだり、山の木の実を採ったりして、細々と命をつないでいけばいいではないか。人の付き合いがないのだから、みすぼらしい姿を恥じて後悔することなどもなくなる。食べ物が入手しづらいので、粗末な食事でも美味しく感じられるようになる。こうした粗衣粗食の楽しみは、裕福な人たちに向かって言っているのではない。
しからばすなわち現今の日本は封建時代先天の日本と、明治時代後天の日本との大激闘の戦場といわざるべからず。(中略)されば今日のわが清鮮爽快なる日本の新天地においてすらなお旧分子の冥々隠々裏りに飛揚跋扈の威勢を逞しゅうするもまたゆえなきにあらざるなり。
抑も明治の維新は、我国未曾有の大改革にして、万国にも殆ど比類なき所なり。封建の制変じて郡県となり、衣冠束帯変じて洋服着用となり、藩兵は変じて鎮台兵となり、孔孟の教衰へて西哲の道行はる。その他、制度風俗より農工商に至るまで、昔日の旧慣地を払ひ、明治の新天地となれり。
このあたりの「天地」というのは「天と地のあいだにあるもの=世界」という意味で、
会社の忘年会帰り、上司に「キャバクラ行くか~」って言われて付いていった。上京して二か月の私はキャバクラ初めてで未知の世界、しかも今回行くのは所謂熟女キャバクラ、、、どんな化物が出てくるんだとか思って入店。
熟女キャバと言うだけあってボーイもおじいさん、不安になりながら上司と席に着くとやって来たのは見た目30代の女性、美人のお姉様って感じで逆にビビった、周りを見渡すと同じ感じで30代が多く40代ちょっと行ってそうな女性も居た。
私と上司はハイボール嬢は花月を注文、中央にハイボールの原液と氷の山そしてほっそい花月、こうやって嬢がどんどん頼んで稼ぐんすね、、、って考えてた。
乾杯の後は上司と私と嬢の三人で他愛のない会話、どんな仕事とか出身とか趣味とかそんな感じ、熟女キャバだけあって他愛のない話でも嬢が話膨らましてくれるしどんどん話振ってくれるから助かる流石話術のプロって感じた。
今回は上司の支払いで、退店間際に嬢から「いつか上司になったら後輩を奢れるようになりなさい」と言われ仕事頑張らないとなぁとか思ってた。
初めてのキャバクラでしかも熟女キャバで不安しかなかったけど、熟女ならではの経験豊富な話術で楽しかったしまた来ても良いかなと。
恥の多い生涯を送って来ました。
自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。自分は東北の田舎に生れましたので、汽車をはじめて見たのは、よほど大きくなってからでした。自分は停車場のブリッジを、上って、降りて、そうしてそれが線路をまたぎ越えるために造られたものだという事には全然気づかず、ただそれは停車場の構内を外国の遊戯場みたいに、複雑に楽しく、ハイカラにするためにのみ、設備せられてあるものだとばかり思っていました。しかも、かなり永い間そう思っていたのです。ブリッジの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶん垢抜あかぬけのした遊戯で、それは鉄道のサーヴィスの中でも、最も気のきいたサーヴィスの一つだと思っていたのですが、のちにそれはただ旅客が線路をまたぎ越えるための頗る実利的な階段に過ぎないのを発見して、にわかに興が覚めました。(青空文庫)
自分は東北の田舎に生れましたので、ドコモショップをはじめて見た時に
ウィルコムじゃない携帯電話屋さんがあることに衝撃を受けました。
抱き合わせでYahooのADSLが売られていない、そんな馬鹿な。
大人の階段だとばかり思っていたのです。大人の階段を登って降りたら、
登って下った先にはアナザーワールドがあるとばかり思っていました。
もしくは、天国への階段だと考えていたのです。
ツェッペリンの音楽はわたしを飛行船へと誘ってくれないのです。
ギターのサウンドは天国まで登る煙のように幻想でしかありませんでした。
ギターソロの上ったり降りたりは、自分にはむしろ、ずいぶんと気の利いた反復運動に思え、それは世の中ののトラヴィスの曲の中でもでも、最も気のきいたチューニングギターの扱い方だと思っていたのです。
のちにギターソロはただギタリストの為のオナニー行為でしかないと気づいて、、
にわかに興が覚めました。
一葉は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、十歳前後かと推定される頃の写真であって、その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、それから、従姉妹いとこたちかと想像される)庭園の池のほとりに、荒い縞の袴はかまをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、醜く笑っている写真である。醜く? けれども、鈍い人たち(つまり、美醜などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空からお世辞に聞えないくらいの、謂いわば通俗の「可愛らしさ」みたいな影もその子供の笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、美醜に就いての訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、
「なんて、いやな子供だ」
と頗すこぶる不快そうに呟つぶやき、毛虫でも払いのける時のような手つきで、その写真をほうり投げるかも知れない。(青空文庫)
私は、その男の写真を三度、見たことがある。ガンジーでも三度見するレベルだったからね。
一回目は、その男の、幼年時代、とでも言うべきであろうか、Facebookでタグつけされていて多分彼と推定される。
その子供が大勢の女のひとに取りかこまれ、(それは、その子供の姉たち、妹たち、一つ飛ばして、ドドリアさん!!(フリーザ山本)と想像される
グランド花月の舞台の袖に、荒いエビズジーンズをはいて立ち、首を三十度ほど左に傾け、ピサの斜塔のように斜めっている
けれども、鈍い人たち(つまり、芸人などに関心を持たぬ人たち)は、面白くも何とも無いような顔をして、
といい加減なお世辞を言っても、まんざら空(から)お世辞に聞えないくらいの、謂(い)わば
ドドリア感もその笑顔に無いわけではないのだが、しかし、いささかでも、
前説の訓練を経て来たひとなら、ひとめ見てすぐ、