2011-01-05

使えない人間が死んでいくことになにか不都合があるのか?

大卒の50%以上が内定をもらい、形式上有能と無能の二分は為されている。

では、この無能50%はバイトなり既卒就職(できるわけもないが)なり起業なり(できる金とアイディア経営ノウハウがあるとは思えないが)なり公務員(なれるだけの頭があれば今年だろうと無い内定はならんだろうが)なりする道を選ばざるをえないわけだが、彼らがいなくてもぶっちゃけ移民の方が労働力としては期待ができるし、市場価値も彼らのほうが高いわけで、こいつらっていなくてもいいんじゃね、というのが率直なところ。

というのも、人口自然減な日本において、今ある企業もどっちにせよ使えない奴から死んでいく。労基法の遵守をさせるだけで、50%程度の企業が死に、50%程度の人間が職を失うだろう。言ってみれば、新宿のうるさい呼び子(特にマツキヨABCマート)がいなくなるということだ。ありがたいありがたい

企業がなくなると、働けない人が出るとか、不便になるとかい精神に訴えるような似非ロジックを展開してくる人が多いけど、ぶっちゃけそんなことのどれだけが重要なのか。

使えない奴は使えない。職種、業界が合わないとかい次元はなく。

僕は、真剣に身分社会制度の復活を考える。慣習的に学閥や生誕時の扶養資産というカタチである程度実現しているものの、もっと明確な物が欲しい。完全世襲化とかどうだろう。親がマツキヨ子供マツキヨ。薬屋に客を呼び込むために産まれた残念な子

人間は遅かれ早かれ死ぬ。死期は、よほど強い衝動がない限り選べない。つまり、就職できない程度で自殺するにしても、その後の生活で苦しくて自殺しても、その程度の人生だったってことで、特に悲しむ必要もないと思う。そんな奴が、これから日本で生き残れるとは思えない。予定調和というやつだ。

結局のところ、誰かの人生、あるいは国の今後を杞憂して雇用改善しろだの抜かすバカより、自分の為に生きて自分利権を断固として譲らない人間のほうを俺は支持するということだ。使えない奴を切り落とすのは自分共同体を守る上での当然の行動で、どこのコミュニティにも属せない弱者は死んで当然だし、可視化されなかっただけでこれまでにも腐るほどいたはずだ。不満があるなら革命すればいい。そのときはそれ以上の力で潰す。そういうこと。

就職に限ったことではない。

恋愛日常の買い物、ありとあらゆる場面で我々は選別し、篩いにかけ、上質なものだけを残す。

雇用だけ劣等なものを大事に扱えなどという主張自体が、間違っているのだ。

そういうやつらはアウトレットにでも行け。アウトレットでも売れ残るなら、捨てられてしまえ。そういうことだ。

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