はてなキーワード: 矮小化とは
(追記)
定期的に「からかい上手だと思っているのは高木さんだけで、西片くんは実は本気で嫌がっている」 「高木さんの“いじめ”のせいで西片くんが自殺する」というようなネタを書く人がいるので
この二人は大人になったら結婚することが確定していると聞いたけどそれがフォローにならないくらい読者にとって不快な“からかい”をしているのか?
西片くんに何のメリットもない一方的ないじめのような描写があるのか?ヒロインをいじめ殺人の加害者のように扱う正当性が作中にあるのか?と気になっており、
サンデーのアプリを入れていることを思い出し一巻分が無料だったのでとりあえず読んでみたという次第である
(追記終わり)
ヒロイン高木さんが同じクラスの西片くんにした「からかい」がこちら
・びっくり箱で脅かしてこようとする西片の思惑を読み、先にびっくり箱を仕掛けて驚かせる
・ 「消しゴムに好きな子の名前を書いて使い切ると両想いになれる」というおまじないの話をした後に自分の消しゴムを放置して席を立つ
西片が勝手に消しゴムを見ることを見越してあらかじめ「ろうかみろ」と書いておき、廊下で待機して西片を翻弄させて楽しむ
・プールの時間に生理で休んでいるふりをして、自分を気遣ってあたふたする西片を見て楽しむ
・実は体調不良でもなんでもなくて体に巻いていたタオルを脱ぎスク水になり西片をドキドキさせる、手の怪我で見学していた西片に「怪我が治ったら一緒に泳ごう」と言ってさらにドキドキさせる
・授業中に変顔で笑わせようとしてくる西片にまったく動揺せず、逆に鏡を向けて西片を噴き出させる
・最近筋トレを始めた西片に「たくましくなった」 「かっこよくなった」と本心から言って顔を真っ赤にさせる
・空き缶投げ対決で西片が勝ったらファーストキスをあげると言ってドキドキさせる
・雨の日、傘を忘れたことを理由にひとつの傘を使い一緒に帰る。大きなカエルを手でわしづかみにして近づけてくる西片にまったく怯まず、それどころか相合傘をしていることを強く意識させてドキドキさせる
・授業中に優しく微笑んでドキドキさせる
・耳元で西片が好きだよと言う
これで「いじめがーー!」とか「西片が自殺したらどうするんだーー!!」とか言う奴ら本当になんなの
ただのバカップルのいちゃいちゃ
どこにトラウマ刺激される要素があるんだ?どこがいじめなんだよ
中学や高校の時に女子から「ファーストキスあげるよ」とか言われたことあるの?それがトラウマなの?人生で一度もそんなこと言われたことないくせに?
「からかい」というワードでクラスのいじめっ子から「不細工」 「デブ」 「臭い」 「キモい」と嘲笑されたトラウマがー!!って高木さんそんなこと言ってないのに知らんがなすぎる
「無自覚両想いの可愛い女の子に耳元で好きと言われる」を「仲良くもないしもちろん好きでもない粗暴なヤンキー男に絡まれ、暴言や暴行や窃盗の被害に遭った」に変換しないでもらえるか
「無自覚両想いの可愛い女の子に耳元で好きと言われる漫画」を「仲良くもないしもちろん好きでもない粗暴なヤンキー男に絡まれ、暴言や暴行や窃盗の被害に遭うことをコメディチックに描いて矮小化したり肯定したりいじめを推奨する漫画」に変換しないでもらえるか
ついでに高木さんと西片は結婚して子どもができますっていう続編?おまけ漫画?を作者が描いてるっていう話も漫画好きだったら読んでなくても知ってる人は知ってるだろうし
第一話で高木さんは「ろうかみろ」の裏に「西片」って描いてあるからあっこの子は好きな子にちょっかい出してるんだなって速攻で分かるようになってるし
他の話でも西片が学校にいないとつまらなさそうにしてるとか嘘をつかないとかモノローグでももうほぼ好きって言っちゃってるし
あんな顔真っ赤にしてる西片が何で「本当は自殺するくらい心を病んでいる、嫌がっている」って決めつけるんだろう?
自殺云々の話をする奴は「原作と違い西片くんは照れ顔を見せることなく顔面を蒼白にして嫌がっているif」や「高木さんが西片を好きではなく悪意に満ちた表情で中傷してくるif」の話じゃなくて本編軸でそうかのような言い方をしていることが多いように感じる
障害によっては表情を読むのが苦手な特性があるっていうけどこれは漫画のキャラに対してもそうなんだろうか?「照れている」表現が分からないんだろうか?鬼滅みたいになんでもかんでも台詞で全部説明されないと理解できないんだろうか?
それとも「この絵は高木さんのフィルターを通しているだけで本当はもっと口を歪めたりして醜悪な顔つきで嘲笑しているんだ!」と勝手に思い込んでしまうんだろうか?
西片のことが好きな高木さんがふんわりとした笑顔で「かっこよくなったよ」と言う場面があったよ、という話を挙げてもそのページを実際に見せても
“彼氏持ちの派手な女が同じようなヤンキー女子を引き連れ、怯える西片を取り囲み、「てかさあw西片ってw……プププwかっこよくなったよね……」 「ぎゃはははは!!!!ありえねー!!www」 「あーもうマジ最悪~!www」 「頑張ったねw次の罰ゲーム何にする~?www」って言うだけ言って去っていった”、
西片は西片でいつも高木さんにやり返してやろうと思ってるし、ツレションしながら気さくに喋れる男友達もいる描写があるのに「いじめられっ子でぼっちで不潔で気弱で泣き寝入りするしかない低スぺ男子」だと思い込んでしまうんだろうか
ろくに読みもしないのにタイトル等ほんの一部だけ見て勝手に不安を刺激されて
ありもしない展開に怯え、漫画家を反社会的な人間扱いして糾弾しようとするみたいなの多くない?
(漫画やアニメじゃなくてもあると思う、「学校で行われる健康診断」って聞いて自分が子どもの頃の昭和時代に雑に全裸整列させられてたトラウマを想起したおばさんが心の傷を癒すため、今の色々配慮された健康診断をなくそうとする活動してるとか……)
共感力が高くて思慮深い人間だと思ってそうだけどそれは「認知の歪み」とか「自他境界がない」とかいうやつじゃないんだろうか
どれだけ作者がヘイトコントロールに気を使ってもまともに読んでない奴や病院行った方がいいレベルの精神障害者に描いてもいないことで正義棒で叩かれ筆を折られそうになるなんてたまったものじゃないな
童貞だから差別を受けているも同然だ、なんて差別の矮小化してる汚物なんか消毒されて当たり前の存在だから
女があてがわれないことが差別なんだ!
自分がやってしまったこと(例えそれがわずかなものでも)が確実に原因で起きてしまった不幸と、まったく自分に原因のない不幸とではどちらがより耐えがたいものだろうか。
前者は「あのとき自分がこうしていなかったら…」というような激しい後悔に苛まれるだろうし、後者は そのことの理不尽さの前でおのれの無力さをおもいしることだろう。
さて、その選択はとりあえず個人の手に委ねることにして、最初の問いの「不幸」を「恐怖」と置き換えてみよう。
[A]その人自身に起こるべくして起きた恐怖
と
[B]全く原因不明の恐怖
どちらがより怖いか。まあケースバイケースというか結局はその状況に立たされなければ答えは出ないだろうが話を続ける。
[A]の原因というのを、過去にはたらいた明らかに人道に反する行為、とより狭義のものとし、 それ以外を後者にいれるとすれば、一般的に「ホラー映画」と呼ばれているものはほぼ全てが後者を扱ったものだといえよう。
原因が呪いのヴィデオテープを見たということにしろ遺伝子操作に失敗して前代未聞のウィルスに感染してしまったことにしろそれらはとくに人道に反するというほどものではなく、せいぜい無根拠な禁忌を犯したという程度だ。
そして観客はその恐怖を、襲われている者に 感情移入/同化してともに味わい、それから逃れるとホッとして、それからまたそいつに襲われて……、 で最終的には原因が解き明かされるなり逃げ切るなりで幕は下りる。作る側も、いかに観客を引き込ませるかを意図して作っているし、そこで描かれる恐怖というのはあくまで襲われる側から見たものだ。
ところで、[A]の恐怖を描いた映画がいまやほとんどないのは、非のある者がこうむる恐怖を因果応報・当然のものとしてみなし逆に追いつめていく方が主人公として描かれているからである。
すなわち正当な復讐をする勧善懲悪の物語となってしまう。当然それは「恐怖= 襲われる側への感情移入により抱くもの」の図式が成り立たないのは言うまでもない。
では[A]の恐怖が恐怖映画として成立する場合とはどのようなものであるか。
それは、執行される復讐方法が観客に感情移入など到底させないほどおぞましいものであるときである。
観客を思考停止に陥れさせるほどの残酷なもの。このとき、その恐怖はまさに恐怖そのものとしてスクリーンに映し出される。
黒沢清監督作品『蛇の道』(1998年)はこのような映画である。
いや、これだけではこの作品を ひどく矮小化していることになる。
この作品の恐怖は、あるひとつの極点に立ってしまった人間がとってしまう行為の目をそむけずにはいられないような醜悪さが、これでもかこれでもかと露呈されていくことにある。
かといってそれは単に悪趣味とかたづけられるような類いのものでは断じてない。
それが、紛れもなく人間の性質によるので、恐怖を通り越してとにかく正視しがたいのだ。
それでもひとはこの映画を見るというほとんど拷問のような行為をやめようとしないのは、その恐怖の果てにも救いがあるはずだと信じているからにほかならないのだが……。
この映画での哀川はほぼ、人間の醜悪さを次々と 引き出す媒体として存在している。またその媒体としての仕事ぶりの的確さは、この世界の物理学的法則を解明していく学習塾でのもうひとつの姿とも重なり、存在論的に否定しがたいものとなるのだ。 あえて例えるならばこの作品での哀川の存在は、ルー・リードの声の響きのようだ。優しさ/慈悲深さと、 その奥にある圧倒的強度をほこる底無しの得体の知れなさ、そしてかなり強引なのにもかかわらず 抗いきれない魅惑にも似た正しさ(のようなもの)を備えている。
いや、やはりできるだけ見ないほうがよい。レンタルビデオ屋のやくざものコーナーに、絶対的「大凶」としてなにげなく陳列されているのが、 この作品の存在としてしごくふさわしいものだとおもわれる。
(2024年5月付記:リメイク版公開の報に触れ、四半世紀前にこのような文章をひっそり公開していたのを思い出したのでまたひっそりと匿名公開させていただきました。ニュアンスを変えない程度に改行等いじりましたが、死語である「ヴィデオ」」」云々の最終2行は削れませんでした。)
俳句が"情念"や"私"を盛る器たり得るか? というのは、増田の言う通りあるあるネタだと思うが、正直情念マシマシの俳人もいるので、情念一本槍で説明するのはちょっと難しいんじゃないかと思う。というわけで、自分の好きな情念系の俳人、三橋鷹女の句を紹介したい。
あまりにも有名なこの句。なんというか、余りにもぎょっとする一句だ。作者は秋の夕方に燃え上がるような紅葉の樹をただ見ているだけだ。しかし、その樹の美しさが作者の心中と出会って化学反応が起きる。「この美しい秋の夕暮れの紅の陽の中で、こんな燃え上がるように輝く紅葉の樹に登ったら、私の中の何かが身を焦がし、たちまち目はつり上がり口元は避け頭には角が生え私は鬼になってしまうのではないかしら……」と考えるという、そんな俳句だ。想像できるだろうか?
たとえば妖艶な女性が秋の夕暮れ、紅葉を見ながらほんのり微笑んでるわけだ。(できれば舞台は京都とかその辺の古都であってもらいたい。)やあ、紅葉がきれいですねえ、なんてうかつに声をかけると彼女はにっこり笑って、「そうですね、きれい……あんまりきれいで…」と何か言いたげに言葉を濁す。ここでついうっかり、え、紅葉好きなんですか、なんて下心を出して聞いたが最後、「いえね、あんまり燃え上がるようにきれいだから、この樹に登ったら全身火に包まれてしまいそう、そうして大声で叫ぶ私は、まるで鬼になったように見えるかしらなんて思うと面白くて……」などとやべー妄想を全開でぶちかまされるからだ。考えてみてほしい、鬼になるかどうか、とか以前に、美しい紅葉を見て「その樹を登ったら…」なんて想像をする時点で(まともな大人でそんな奴、いるか?)もうこの人尋常じゃないヤバい系の人なのだ。紅葉を見たら、駆け上る想像をせずにいられないくらいの、この人の身を焦がす情念っていったい何だろう? 恋か。恋だとしたら、どんな恋なのか想像するだにオソロしい。一方でこの「燃え上がる樹に包まれて鬼女になる」というその妄想自体は、余りにも凄絶で美しくてカッコいい。自然・風景と一体化しながらも、この人の情念はまったく矮小化も定型化も減量もされず、読む人の心を打つ。
これにビビっと感じてくれたかもしれない人のために、もう一句だけ鷹女の名句を紹介しておく。
ただそれだけ。まあ、露ははかない人の命の比喩でとか、白露はことに露が美しい秋の季語だとか、そこから作者の人生も秋にさしかかっている立場で詠んだ句であろうとか、まあそういう教科書的な講釈はいい。いいと言いながら一応一通り言ったけど、それより、スッとこの句を眺めてほしい。そこに立つ、一人の女性の姿が鮮やかに立ち上ってこないだろうか。
和服の着付けというのはなかなかの苦労だが、帯を締めるというのはその仕上げの工程に当たる。この句で「帯を締める」というのは、普段から服の手入れもぬかりなくし、朝からきちんと身支度をし、化粧もふさわしくして、そして最後にキュッと帯をしめるまでの一連の工程の総称だと考えられる。これまでも、これからも、そしていつか死んでゆく日にも、私はこうして帯を締めて(そうして死んでゆく)、という( )内の聞こえない言葉が、「帯締めて」という言い差しによってかえって響いてくる。女性としての自身、当時の社会との軋轢、様々なものを一身に引き受けながらすっくと立つ一人の人間としての強い思いが伝わってくるようだ。
「死ぬにはいい日だ」なんて言葉もあるけど、常在戦場の心構えというのはそういう何気ない言い回しの中にあるものなのかもしれないと思う。それになぞられるというわけではないのだけれど、この「帯締める」行為も何だか戦いに備えて自分自身を隙無く装っているような、そんな雰囲気が漂っている。こういう「私はオンナよ」みたいな、固定化されたジェンダーの内面化って昨今あまり流行らないんだけど─まあ軽やかに変化し続ける自己というのもそれはそれでもちろんよいのだけれど─人が成熟の深みとでも言うべきものに到達するには、ここまで強く深く「私は○○○だ」という意識を自身に刻み込み、時を重ねる必要があるのだろう。そんなこの人の「覚悟」みたいなものを、「死」の一字がぐっと引き締める。誰にも文句は言わせませんよ(ニッコリ)、という体で、これまた見事な情念の世界だと思う。
どうだろう、こういった情念・個性の強さ深さというのは、なかなか短歌のそれに劣ったものではないのではないだろうか。
そうしてみると、結局増田の言う”情念”も、それぞれの作家性に拠る部分がかなりあるということも理解していただけるのではないだろうか。鷹女の句は、俳句の王道を決して踏み外してはいないけれど、輝くばかりの個性と情念に満ちあふれている。もちろん、増田の言う、短歌と俳句の出発点となる発想・捉え方の違い(ほとんど真逆)、それに基づく「短歌やりすぎると俳句作れない」という主張もそれなりにもっともだと思う。ただ、だから俳句には情念が盛れないと言われると、いやいやそんなことはないんだけどなあ……と思ってしまうんだよね。