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はてなキーワード: 古典とは

2024-06-06

anond:20240606213229

ジスロマック古典をべた褒めする芸があるから偉いんだぞ。

こいつは20だかの若い人間で、そいつ古典作品を褒めるって芸風がウケてるんだが、その程度の理解もないのはマズイぞ。

例えば、Windows95を触って、この機能なんて画期的!って言ってるようなもんだ。

今すぐお前がWindows95時代の激重低性能PCを触ってジスロマックのようにべた褒めすることはできるだろうか。難しいだろう。

それをジジババに媚を売りつつ、ちゃんと実際にレビューしてると感じさせないといけないわけだ。並大抵の才能がないと実現は難しい。

一見バカでもできそうなジャンルだが、才能がないと不可能ジャンルというのは確かに存在するんだよ。

2024-06-05

anond:20240605221336

音楽音痴とか不器用楽器ができないとかだと教科の履修自体がしんどくなるから音楽史、みたいなのを気分だけ出してるとかじゃないか

体育で身体が弱かったりする子供のために体育史みたいなのがあっても良いような気もするけど、古典ギリシアとか「憧れの偉人」って感じになりにくいのかも。

anond:20240605111952

三点リーダー利用者の中でも、2つ重ねることを強く求める古典原理主義派と、印刷文化の名残だからネットではそこまで厳密にしなくていいでしょって言うスタンス現代俗世派で対立してたりするし、あまり深入りしたくない世界ではあるよね……。

2024-06-04

anond:20240604171200

アホか。どこの説明を真に受けてんだ。

オリジナルがないのはそれがジェンダーではなくセックス由来だからで、

ジェンダーだったら当然にオリジナルがあるわ。

 

女の子の色が赤とピンクなのはジェンダーだが、それはオリジナル文化が遡れる。

 

オスがメスに優しくするのは限りなくセックスやろ。

妊娠という生物環境適応した結果や。

 

ジェンダー学ほんま眉唾ばっかりだから古典を真に受けるのやめろや。

特に20世紀のやつは嘘か放言ばっかりや。

anond:20240604010825

関係ないけど、ヨーロッパ古典演劇って容姿で嫌われるのは当然みたいな価値観あるよね

ま、日本中国もそうだけど

2024-06-03

最近よく耳にする間違った敬語

あくまで私個人経験に基づくものであり、お前の周りだけだろと言われたらそうかもしれないのだが、とても気になる敬語の間違いがあるので書き記しておく。

それは

「○○さんが△△していただいた」

という言い方である

こう言われるとき、どうやら大抵は「○○さんが(自分に対して)△△してくれた」という事が言いたいらしい。

でもそれはおかしい。していただくというのは謙譲語であり、謙譲語というのは動作主体がへりくだっていることを表すものである

からこの場合「○○さん」が動作主体であり受け手自分であるから相手をへりくだらせる」という事になる。

「参れ」とか「申せ」って言っている古典の帝とか時代劇の殿様みたいなもので、物凄く尊大表現になってしまう。

からそれがおかしいとすると「○○さんが△△していただいた」と聞くと「○○さんが(◇◇さんから)△△してもらった」という意味なのかな、と勘違いする。

例えば「同僚の○○さんが取引さんの◇◇さんに△△していただいた」という文ならば理解できる。話の流れとして(◇◇さんから)という部分がすでに共通認識になっていて省略されたのかな、だとしたら私が聞き逃したのかな、と考える。

しかしその後の話の続きを聞いてみるとどうもそういう事ではなく、結局前述の間違った敬語の使い方になっているだけだったと分かるわけである

敬語100%完璧に使いこなすのは相当に難しいし、話している中で言い間違えてしまうことはもちろん私もある。

しか上記表現動作主体が誰なのかさっぱり分からなくなるという大変危険な間違いにも関わらず、複数の人が使っているのを何度も耳にしている。

これは果たしてどういう理由なのだろうか。主語と述語が一致しない話し方をしてしまう人というのは一定数いるとよく言われるが、そういう人が頑張って敬語を使うとそうなるという事なのだろうか。

2024-06-01

anond:20240601112828

ガバガバって性器ガバガバってことじゃないの?

古典文学調べても出てこないような

エロ小説漫画調べなきゃ

anond:20240601111643

そういう文脈で使われている昔の本はないんだよね。

普段ちゃんと本を読んでない人は知らないだろうけど、古典文学を1000冊読んでもそういう意味で「ガバガバ」を使っているような本は一冊もないよ

2024-05-30

文化資本って、学歴とか、スポーツ楽器習い事をしてたとか、古典教養があるとか、食事マナーがあるとか、味がわかるとか、TPOに応じた服装ができるとか、社交的にふるまえるとかいろいろあると思うんだ。

文化資本についての議論で「美術館コンサートに行けるから~」みたいなわかりやすい例しかでてこないと、この人たち文化資本が豊かなの?って感じになる。

2024-05-22

高校古典全部マスターしてたらすぐにでも古典学者になれるし、日本史世界史ちょっと調べて本書けるやろ

情報教科書完璧マスターした学生コーダー世界でも即戦力ワンチャンあるで!」みたいな吹き上がりはちょっと笑ってしまうぞ。

センター満点でもマスター出来てるやついねーよ。

中学生「見なければいけないアニメの量が半端ない

見なければVtuber話題や友人との話題についていけない…らしい

楽しんでいるのならいいけど、楽しんでいないなら問題だが今はまだ楽しそうだからいか

しかしこれ平安時代でいうところの古代中国古典だよな

大河ドラマでやっている人たちが手紙でやりとりしてたあれ

逢坂の関とか色々

すごい時代になったもんだ。平民の子がそういう高度な会話してんだぜ?

2024-05-21

すっぴんの女が社会で受け入れられるわけないじゃん

どうしてメイクしなければならないんだすっぴんでもいいだろ!

って文句垂れてる女も別にすっぴんが良いものだとは思ってないからね。

めんどくせーからやりたくねーわってだけで。

頭の中でやりたくないこととやらなくていいことが区別つかなくなっちゃってんの。

こんなもん、社会に出てから古文なんか使わないんだから高校の授業に古典があるのはおかしいって騒ぐアホガキと変わんないじゃん。

そんな奴の話を誰が聞くんだよw

自分メイクしている時よりもすっぴんの方が輝いていられるんです!自分にとってはその方がより良い生き方なんです!って自信持って言えるなら別だけどそんなこと考えたことないでしょ?

日本神話でいうところの国産みってスピアステアするけど

それに影響を受けてシェイクに変えたのが英国古典になったんだよね

2024-05-16

anond:20240516113224

殿下語録を分かる奴なんてニコ動に巣食っている古典RPG動画しか見ない懐古厨ジジィくらいしかおらんぞ。いい加減令和に引っ越してこい。せめて平成くらいにまでは来い。

気づいたこと。ワイ、人間より芸術作品の方が好き

生きている人間よりも、芸術作品の方が素晴らしい

ここでいう芸術作品古典とか現代アートに限らない

無名クリエイターでもなんでもいい

 

10万人とか100万人に1人みたいな芸術家の作り出すものけが素晴らしいと心のどこかで思っているか

 

年齢関係なく無名の人が不慮の事故で死のうが

マジでどうでもよくて

 

逆に有名な芸術家が亡くなると本当に悲しい

2024-05-09

万葉集も新古今も過大評価流行語大賞オールタイムベストみたいなもんじゃ

「なにかそういうデータがあるんですか?」

「ぺこーらに告白しようと思ってる」

「5000兆円欲しい」

これらの流行語万葉集和歌になんの違いもない。

背景のストーリーを把握し、イメージを共有し、その上で表現としてしっくり来たことが評価され、バズり、シェイクスピア語録みたいになる。

そういう類の文化だ。

はっきり言って気持ち悪い。


アニメドラマの名台詞ランキングとか、漫画の名シーン投票とか、そういうのも大差がない。

別にそれ自体はいいが、それを過大評価してるのが気持ち悪い。

FLASH黄金時代過大評価してネットが活かした文化最先端だったのだと憤るインターネット老人welcom to undergroundを見せられているようで共感性羞恥すぎる。


よく分からんけどなんか長年評価されているし若造は知らなそうだからこれ褒めてたら人生ベテラン感出るやんみたいはすけべ心の見え隠れがエグいということだよ。

キモいんだよな。

古典過大評価することで自分が偉くなったかのように勘違いするガキっぽい態度の大人


子供ガンダム手塚治虫過大評価してインスタント文化人を気取るノリを大人にされるとキツすぎるわけよ。

暗黙の短歌テーゼ

最近短歌に関する増田記事とそれへの反応で気がついたのは、多くの人は歌人が共有する短歌に関する暗黙の考え方を知らないということだ。

短歌詠みの間には短歌に関する決まりごとや規範が暗黙のうちに共有されており、それを念頭に置いて歌を詠んだり、鑑賞したりする。私はこれを「短歌テーゼ」と勝手に呼んでいる。

あらかじめ言っておくと、このテーゼは必ず守らなくてはならないルールではない。むしろ現代短歌どうやってテーゼに沿わずして魅力のある短歌を生み出すか試行錯誤している節がある。

だが、どんな流派であっても優れた歌人はこのテーゼ意識し、従うか対抗するかのスタンスを明確にして歌を詠んでいる。そして、そのスタンスがある程度共通している歌人同士が同じ結社の中で作歌や鑑賞をすることで歌風確立させて行くのである

であるから、反例となる名歌はいくらでも挙げられるであろうが、反例があることはテーゼ存在しないことを意味しない。

以下、私はこれが短歌テーゼだと思うものを挙げてみる。これらは私が歌会での経験短歌関連の書物を通じて知ったことをベースにした持論であり、歌壇において認められた学説などではないということは断っておく。これらが短歌テーゼ網羅したものとも考えていない。もしこれも短歌テーゼなのではないかと思うものがあれば、教えてほしい。

また、この記事を書くにあたって各テーゼに従っている歌と、対抗する歌(=アンチ・テーゼ)を例示しようとしたが的確な歌を全部に配置できないので諦めた。こうした歌の事例もぜひ提案してもらえると嬉しい。(この記事果たしてまれるのか?という疑念はあるのだが……)

ちなみにこれから挙げるテーゼに対して確信犯的にすべて逸脱しているのが穂村弘である穂村弘歌人の中でも一般的知名度が高く、フォロワーも多いのだが、実のところ短歌テーゼ的には極めて特異な位置付けにある存在だ。ただし、それは戦後短歌運動の流れを意識的に継承した、れっきとした文学的試みである

1. 短歌は、<うた>である

短歌本来は歌であり、5・7・5・7・7の韻律を守り、音読したときに美しい調べとなるよう詠むことを求める。句割りや句またがりを多用したり、日本語として音読が困難な言葉を入れてはならない。

2. 短歌は、現実描写するべきである

歌会などで短歌の詠み合いなどをすると、時々「この歌は"作ってる"ね」と評されることがある。短歌描写リアリティが無かったり、やけにドラマティックであるなど、現実には起こったことでない内容である判断された時にこう言われる。このテーゼにおいては、どれだけ平凡ではあっても日常に実際に起こったことの方がドラマティックな虚構よりも価値があるのである

3. 短歌は、作るものでなく生まれものである

"作る"という先ほどの言葉の中には、作為的言葉を操り、上手く作ろうとする気持ちを戒めるニュアンスも含まれている。日々優れた短歌を鑑賞し、心のうちに誦じて日常を過ごす中で、するっと生まれてくるものを精製するのが本来短歌なのである。こうした体験なしに、ただ物珍しい言葉をいたずらに組み合わせて面白がられる歌を作ろうとする姿勢は望ましくない。

4. 短歌は、身体性を伴うべし

短歌日常生活に即した芸術である。その生活感覚は、身体から得られるものであって、生活に根ざしていない社会政治的話題や、テレビで見たことなど身体を伴わない経験を取り上げるのは望ましくない。

5. 短歌は、風景と実感の呼応関係である

短歌は、風景描写と心情の表現がセットとなるように構成すべきである風景はただの現実ではなく、それに対峙する詠み手の心情を象徴するものとして描写されなければならない。

6. 短歌には、情念を込めるべきである

ただものごとを説明するだけの短歌はただごとうたであり、本来短歌ではない。短歌には詠み手情念表現されなければならない。

7. 短歌は、日本の伝統文化である

短歌日本語を支える伝統文化である王朝時代以来の和歌歴史を学び、古典の優れた歌に触れながら、そのような伝統に連なることを意識して歌を詠むべきである和歌過去の名歌を鑑賞し、日本文化象徴するような風流事物を題材として歌を詠め。




追記:

ちなみに私自身は1・4・5・6に賛同し、2・3はややや否定的であり、7は積極的否定するスタンスである。7とどう決別するかは、戦後短歌の大きな課題でもあったという認識である

2024-05-06

anond:20240506091319

「猿の母子」は実際には人間だったのを「猿」としたのかもしんねェ…

腹を割いたのは…ちうご古典はえぐい話がぎょうさんあることを思へば…

anond:20240506091319

中国古典、猿の母子の悲しい故事が多い

猿拔母箭_百度百科

https://baike.baidu.com/item/%E7%8C%BF%E6%8B%94%E6%AF%8D%E7%AE%AD

後漢末の人、鄧芝は母猿を矢で射ち抜くと、そばの子猿が母猿から矢を抜いて傷口を舐めて木の葉で止血をしているのを見た。悲しくなって弓矢を捨て「もう狩りはしない!」と決意した。

 

猿母中箭_百度百科

https://baike.baidu.com/item/%E7%8C%BF%E6%AF%8D%E4%B8%AD%E7%AE%AD/4782455

僧侶は、鳥を狙った狩人が木の上の母子猿に矢を放つのを見た。矢は母猿の腹に当たった。母猿は近くの父猿を呼び、子猿を託すと矢を引き抜いて、木から落下し絶命した。狩人は弓を折り「もう狩りはしない!」と決意した。

【古今著聞集/母子猿】の元ネタ

2024-05-02

anond:20240502025213

SF入門に「プロジェクト・ヘイル・メアリー」を推薦する!

あんま表で大きい声では言えねーけどSFって実は古典よりも今のほうが文章的にも展開も格段にアップグレードしてて、とりわけSFキモであるセンスオブワンダーは昔の作品に比べて明確に意識的に重んじられるようになった。

それにしてもSFの楽しみは「三体」とグレッグイーガンだけ読んでれば全体の満足度の9割くらい摂取できるんだが、しかし入門者に向けて三体を勧めるか・・・・?🤔

10ページくらいで挫折して二度とSFに寄り付かない恐れがある。

そこで「プロジェクト・ヘイル・メアリー」。読みやすいんだ、これが。

登場人物も限られてるから込み入った人間ドラマに脳を焼かれることもないし、ギュギュッと詰まったセンスオブワンダーに惹きつけられること請け合いよ。初心者オススメ

2024-05-01

ハンサム落語」に失望した愚痴

けっこう前に見に行った舞台に出ていたへっぼこ役者愚痴が今さらふつふつと再沸騰したので吐き出し。

推しが「ハンサム落語」というシリーズ企画舞台に出たので見に行った。事前発表のビジュアル写真衣装も素敵で、落語俳優二人組の掛け合いで演じるというコンセプトも気になった。

舞台当日は推しのいろいろな側面や、様々な役を演じ分ける演技力の高さや、好みのビシュをバッチリ堪能した。その舞台ならではの企画もあり、舞台のものはとても楽しめたし行って良かった。演出音楽美術もすべてが最高だった。

ただ、共演者に何人かへっぼこ役者いたことだけがずっともやもやしている。悪ふざけが過ぎる連中だった。その場のノリで悪ふざけをして姑息に場を引っ掻き回せば「ウケる」と思っている連中だった。

彼らの演目は酷かった。舞台のコンセプトとして落語を演じる以上は、その元ネタに敬意を払って欲しかった。

古典芸能には「守破離」があり、習熟度に応じて型を守る、型を破る、型から離れる、という段階がある。その舞台シリーズに何度も出演経験があるらしいへっぼこたちは、「今さら真面目に演じてもサムいだけ」とでも考えていたのだろうか。それとも生来の悪ふざけ好きなのだろうか。

とにかく落語登場人物を茶化し、その型を破ることに腐心していた。

そしてその悪ふざけはあまりにもサムかった。古典芸能は、洗練されているがゆえに古典となっている。長い年月を経ても消えなかった落語たちを、小手先姑息にイジって面白くなるわけがない。そのイジり方で面白くなるのであれば、先人たちがすでにそうしている。それでは面白くないからこそ、今の型で伝承されてきているのだ。

古典という根のしっかり生えた樹齢数百年の大木相手に、枝葉を追って笑いを誘うような真似はあまりにも無様であり、気分が悪かった。

リハーサルと異なる演技をしたり、女性役をオッサン風に演じてみたり、悪ふざけのすべてが「出オチ」でしかなく、出オチで一瞬の笑いを取った後はひたすらに寒かった。

私の推し初心者らしくしっかりと型を守って演技をしていて、生真面目なその役者としての在り方を見てまずす好きになった。

そしてさすがは落語、見よう見まねでも初心者でも、きちんとやればそれなりに面白くなる。役者さんが演じるから演技はうまいしか企画が素晴らしく、掛け合いを二人組で演じるところがミソで、初心者役者でもちゃん落語として見られる仕上がりになる。

真面目に演じればそれだけできちんと面白ものになる舞台だ。しか落語にはさまざまな登場人物が出る。推しが一舞台でいくつもの役を演じ分ける様を見られたのは大満足だった。

へっぼこたちはそんな推しを巻き込んでくだらない悪ふざけをした。そしてへっぼこたちの演目は余りにもつまらなかった。

から推し活躍には満足しつつ、ずっとがっかり感を抱えている。推しが良かったんだからいいじゃないか、と思う一方で、古典落語を粗末に扱うへっぼこ役者を目の当たりにしたのが残念だった。

舞台のコンセプト、企画演出脚本美術音楽衣装もグッズもなにもかも素晴らしかった。和洋折衷の色っぽい衣装も、演目を切り替えるとき演出も、お洒落な照明も、客入れの案内からグッズ販売スタッフまで感じが良かった。

からこそ、悲しい。

へっぼこ役者たちはこの舞台常連らしい。つまりあれだけの舞台を作り上げられる企画グループが、あのへっぼこ役者たちの悪ふざけを良しとして、繰り返しオファーしているのだ。

私は「あのへっぼこ役者さえいなければ素晴らしかったのに」と思っているが、へっぼこ役者たちの悪ふざけが企画者の本意ならば、この舞台に関しては私の方こそ「お門違い」なのだ

あの素敵な舞台から「お前はうちの客じゃない」と言われた気がした。好きになったから、悲しかった。

どんな漫画ドラマ小説舞台も、自分が楽しめなければ悪いのは自分だと思っている。ただ、Not for meなだけだ。作品に「私好みじゃなかったんですけど!」と言っても意味はない。ただ去るのみだ。

多分もう見に行かないと思う。すくなくともあのへっぼこ役者が出ている回は。

今日たまたま配信で見た舞台作品に、一番へっぼこに悪ふざけが過ぎた役者が出ていた。やっぱり悪ふざけしていて、そのくせ声量がなくてダサくてやっぱり寒かった。第一印象が悪すぎてもうよく見えることはなさそうだ。

2024-04-29

自分が何で異世界転生小説大好きなのか考えていた。

しかも超甘口の世間的に馬鹿にされやすタイプの奴が好きだ。

今日休日だけど気温が変動しすぎて体がキツイんでぐったりしてるからさ。行動する気が起きない。部屋掃除とかした方が良いんだけどなあ。

主人公自分投影しているのはもう確実。それでいて現代もの近未来SFミステリといった以前好んでいた小説より異世界転生へ主軸が移ってしまったのはなぜなのか。

しかしたら、既存社会に影響を与えたくないのかな。迷惑をかけたくないのか。

バトルロワイアルとか流行ったじゃん。エンタメとして素直に面白かったけど、どこか遠くに「実際の殺人ゲームではないが実質的にぼくたちはこれをやらされているのでは」とか「こんなくそったれな大人社会から手を取って抜けだそう、出し抜いて台無しにしてやろう」みたいな実社会に対する気持ちが残るじゃん。モデルとして提示するというか。

それを異世界転生は残さない。だって新天地うつっちゃってるし、元の世界に影響を与えることはまずないからね。荒唐無稽世界に行っちゃってるからそちらの教訓を持ち帰ることすら読者はできない。

自分いくら幸せになっても、自分にかかわった人を不幸にしても幸せにしても、現実のもしくは現実類似した世界に影響は与えない。だから好きなのかなあ。安心から

ん?なんでそれが安心なんだろうか。現実に持って帰る教訓が一切ないことがなぜ好きなんだ。

説教臭いのはエンタメにはこりごり。うんまあそうだな。私は確かにそうだ。

それに加えて自分人生に行かせそうな教訓なんぞうっかり受信しちゃったら自分人生で頑張んないといけないじゃん。

ロスジェネのつらさなんてほぼ構造的なもんで個人努力なんて同世代から奪うことにしかならないってのにさあ。

抜本的な対策なんて突き詰めたら親世代社会から取り除くしかなくなっちゃうんだよ。古典には親殺しはよくあるが歴史に残る英雄が達成するならともかく自分でやったら単なる犯罪者だもんな。考えない方が良いんだよ。

ああだからかあ。そういうことかあ。

親を殺さないために、我慢するために、異世界の話を読んでるんだなあ私。

オタクが生じるプロセス

自由濫用と度が外れた放縦の許容による昔の道徳の便利化と定形化。

単純な楽しさを追い求めることは悪くないが、社会的孤立層は非友好的環境に接する。

鬱病のような障害に対して人間的な助けを提供しないで、孤立する状態は不健全オタクが生ずる土壌を提供する。

度が外れた比喩風刺の混用、古典に対する誤読から始まる。

単純な楽しさの乱舞は社会に多くの活力素と新しい概念発見提示するが社会的分節化によって魅力的な環境にはなれない。

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