はてなキーワード: アカデミズムとは
たしか加藤登紀子の父親が美空ひばりをオーディションで落とした人で。
まあ教養ある人には醜悪なものだったんだろ。家にレコードや映画フィルムがある当時としては恵まれた文化資本で育った手塚治虫も演歌は毛嫌いしてたな。カッペの下品なものだから。
まあ(精神的)カッペはルサンチマンなので、自分らがルサンチマン感じる人間が眉をひそめるものを支持する、嫌がらせが目的なので(コンビニ前でつば垂らすヤンキーのように
東京の大学いったっきり田舎に二度と帰ってこないのは彼らに田舎の人間がした仕打ちが原因だよ。無理矢理田舎に縛り付けても津山30人殺しが起こるだけ。
「人と違うアイテム」にプライオリティを起き過ぎる人は個性的なのでなく凡庸ありきたりで、せめて誰とも被らないアイテムを持つことで特別な自分になろうとする。だからレアとか限定みたいなのは、そういう空っぽな人間の承認欲求をカモにするアイテム。また、そういう人間であることの印
百姓だから伊勢丹のお墨付きな靴でないと安心して買えなくて、革靴根性のままスニーカーというカルチャーに(スニーカーというカルチャーを理解しないまま)編入したい欲望をかなえるスニーカーが置かれており、それに不平をいいながら、でも伊勢丹に頼らざるを得ない人間の軟着陸がコモンプロジェクツ
ある種のローファイ(ローファイ者ゆえにローファイクオリティなのでなく、マス向けのプロダクトの為にハイファイ者がローファイクオリティに(ハイファイなイデオロギーをもって)設計したもの)というものを読むセンスがまず(ノームコア、或いはハイコンテクストノームコアの)入り口として必要
読みがハイコンテクストなのな。多層レイヤー。ロー/ハイのロー/ハイのロー/ハイ、この場合なら三層構造(実際は、より複雑なのだが。
読めないのでよりよい革質、よりよい縫製、よりよいフォルム。そういう確実なカタログスペック的な保険に頼る訳でしょ、百姓は。
百姓というのはセンスが無い癖にセンス世界にパン大アカデミズムなどのパスポートに免じて名誉センサー(センスある人)として裏口入学する、パルコや伊勢丹でしか服を買えない人種らの事です。デパート顧客はもう中国人とそんな百姓だけ。
ジェン・アイザクソン「フーコーからサンフランシスコへ――クィア理論の不変のルーツ」
https://appinternational.org/2021/09/10/izaakson_from-foucault-to-san-francisco/
本稿は、イギリスのラディカル・フェミニストでマルクス主義者でもあるジェン・アイザクソンさんが、彼女の主催するサイト「On the Woman Question」に掲載された論文の全訳です。著者の許可を得て、ここに掲載します。クィア理論が本質的にペドフィリアを肯定するものであり、欧米左翼とアカデミズムがクイア理論によって蝕まれ、それがいかに政治的に危険であるかが明らかにされています。
クィア理論の成立を画するのは、ゲイル・ルービンが1984年に発表した「性を考える――性の政治学のラディカルな理論のための覚書(Thinking Sex: Notes For A Radical Theory of the Politics of Sexuality)」という広く知られている文書だ。
ルービンは「セックスを考える」の中で、子どものセクシュアライゼーションに反対するのは「エロティック・ヒステリー」であり、一種のリビドー的に引き起こされた道徳的パニックであると主張している。これは、性的境界線を保護することを求めるセックス・クリティカルなフェミニストを、性的に抑圧された堅物にすぎないとする例の古典的考え方と同類だとみなしうるだろう。
左派はクィア理論を採用することで危険を冒している。というのもそれは、ペドフィリア擁護論にもとづいているだけでなく、今なおその軌道がペド的起源からそれほど離れていないからだ。
横から失礼
反知性主義がアンチ・インテリと言っても、中途半端なインテリは信じるんだよね ただしアカデミズムは嫌うって感じ
自分が理解できる範囲のロジックで納得してしまって、専門知識がないとわからない部分は嘘扱いする
例えばMMT信者とか、支持派の経済評論家のいうことは全部信じるんだけど、否定してる学者のいうことは無視してる。
俺みたいな素人にはMMTが正しいかどうかなんてわかんないんだけど、信者の姿勢がおかしいことはわかる。
だからインテリの自覚があるわけではなくて、少なくとも自分が無知であることは分かってる感じ。
ただアメリカのリベラルを見ればわかるけど、反知性主義を批判する側にも同じような傾向があって、結局お前らだって反知性主義だよなってやつらも多い。
Twitterのタイムラインを見ていると、功成り名を遂げたはずの立派な研究者が、若い頃のルサンチマンをいつまでも持ち続けていることがわかる。
とりわけ多いのがアカデミズム内の年長の左翼系教授からかつて受けた屈辱、についての告発である。
暴力を振るわれた、罵倒された、土下座させられた、村八分に遭った、そんなものは研究ではないと嘲笑された、と枚挙にいとまがない。
また、若手の非正規研究者も、安全圏からリベラルな発言をする大学人を冷めた目で見ているようである。
彼らはそれが昂じてネット上で何か議論が沸き起こるたびに、「左翼」「リベラル」の主張を必要以上に強く批判しているように思われる。
学術会議問題の時、意外と研究者の間でも「自業自得だ」的な意見が見られたのも無関係ではないだろう。
もっとフラットな議論ができればよかったのだろうが、今となってはどうしようもないのかもしれない。
南無。