はてなキーワード: 虹裏とは
うん、「また」なんだ。済まない。 TBSの初音ミク特集の件だ。
最初は気持ちは分かるが萌えなんか理解しようの無いオバサン向けバラエティなんだしファンの過剰反応だろう、ぐらいに思っていた。
が、コレを読んで気が変わった。
coldcupのメモ 2007-10-14 VIPのスレに降臨したtask氏の全発言
話が長いので上手く引用できないが、出演者が経緯を語っている。
途中で写真が出てくるが自宅にアニメ内?の女子制服と等身大アニメキャラのタペストリを飾ってるような人らしい。コレは標準を超えたオタクだ。毎日虹裏に通って基準値がずれてるならはっきり言おう。コイツは変態だ。
(俺はヤラせだというからてっきり小道具や衣装は用意されたのだと思っていた)
実際、上記で出てくる番組の企画書という簡単な台本では普通のソフトの紹介でしかない。当初はごく普通に話題の新製品をお茶の間に伝えるつもりでしかなかったことが良く分かる。
出演者が美味しすぎたのだ。俺がディレクターでもそっちを弄れというだろう。そのほうが断然面白い。つまり特集自体は新ソフト紹介から変態くんご紹介に変わってしまっている。
だから
「馬鹿にするつもりだったのがあまりにも出来が良くて、(番組制作側にとって)面白くないから無理矢理放送しなかったようにしか見えない」
『「アッコ」祭り状態に オタク叩きに「初音ミク」ユーザー激怒』 産経ニュース2007.10.15 13:02
http://sankei.jp.msn.com/entertainments/media/071015/med0710151302000-n1.htm
もうほっとけよ、傷はどんどん広がってるぞ。
かわいそうな巻き添え食ったクリプトンはテレビ東京に連絡してトレタマに紹介してもらうように交渉しろ(制作費の敷居が下がって音楽市場が活性化するとかビジネスくさい理屈もつけて)。
虹裏だったら一日見てても飽きません
すいません、誤爆しました
自分はじいさん死んだ時に
俺主宰の集まりだったにも関わらず
周りの連中が行ってこいって言ってくれた事があって
ずいぶん助けられた覚えがあります
昔、音楽を自作してる知り合いがWinMXで自作音源(懐かしのムネオハウス・笑)だけを共有フォルダにいれているのを見たことがあったんだけど、大き目の即売会では混雑やら何やらで島中から作家を発掘することが困難になっている昨今の同人業界、マイナー同人作家が宣伝のために、さも「レアもの同人誌」であるかのように装って、自分でスキャンした自作同人誌をP2Pネットワークに放流していることってあったりするのかな。
特に、Winnyってキーワードで無差別に落とすユーザーが多い(らしい)から、ファイル名に「同人 リリカルなのは」とか「同人 ローゼンメイデン」とかいう属性情報をきちんと入れておけば、偶然の出会いがありうるのかな、と。
こんなことを考えたのも、実は俺はP2Pはやらないけど虹裏のうpスレなんかはふらっと覗きに行く人で、そこで貼られていたスキャン画像で作者や作品の名前を覚えて、何冊かマンガや同人誌を買ったことがあるのね。石恵とか鳴子ハナハルとか小梅けいととか「House of KARSEA」とか「殆ど死んでいる」とか。ちょっと話を脇に逸らすけど、この感覚は、シリーズ物のゲームで自分が存在を知る前に出ていた旧作は中古で買ったけど、自分がハマってから発表された新作はちゃんと新品で買う、みたいな感覚とすごく似てる。とまれ、スキャン画像がもたらす経済効果(我ながら大袈裟な言葉だと思うけど他に思いつかない)ってどんなもんなのか、ちょっと気になる。
YoutubeにPVを上げた場合と上げない場合のCDの売り上げがどうなったのか、とかそんなんと関連させたりしつつどっかのシンクタンク(ノムソー以外希望)が調査してくんないかなー。
コミュニケーション手段が発達した結果、コミュニケーションにも格差が生じている。
SNS等々の先端コミュニケーションの調査によって浮き彫りになるのは、社交的な人間はより幅広く濃密なコミュニケーションを得る反面、非コミュは何の恩恵も得られないばかりか、様々な手段に取り残される結果として、今まで以上にコミュニケーションの場から取り残されていくということであった。
騙されてはいけない。多くのコミュニケーション手段は社交的な人間のためのものである。それらの手段の発達によって利益を得るのは、社交的な人間であって、非コミュはむしろ損害を蒙るのだ。
しかし……非コミュにとっての安らぎの場もまた存在する。2ちゃんねるがそれであり、恐らくは、増田もまたそういったものであろう。個々人では殆ど魅力を持たず、従って自らコミュニティを形成する力のない非コミュがコミュニケーションを得るためには、もはや個人という枠組みを捨て去るしかない。匿名空間において全人が、或いは、少なくとも多くの人々が共同して生み出すバザールの人格において、非コミュは初めて魅力を得る。虹裏(としあき)や喪板(('A`))が、参加者にとって極めて魅力的なのは、仮想的に統一されたデフォルトネームにおいて、こうした力がより顕著に働くためであろう。こうした板が明文化されているいないにかかわらず、内部的に極めて厳格なルールのもとで動いており、外部に対し極めて閉鎖的になりがちなのも、またこうした理由から説明可能である。
なおまた、こうした匿名空間は時として外部者にとっても非常に魅力的なものと写るが、しかし彼が十全なコミュニケーションを甘受していればいるほどに、彼がそこで得る利得はより少ないものと見えるであろう。というのも、彼にとって、自己を埋没させる匿名でのコミュニケーションは、いわばエヴリン・ハバル――全て空虚――であるし、彼は恐らく、自らがコミュニケーションをとっているというよりは、むしろ街頭で選挙演説をしているような、そんな絶望的な感覚に囚われるであろう。何人かは彼の言葉を聞くそぶりはするが、しかし誰も「彼」そのものには注目しない。しかも大多数は、彼には一片の関心も示すことなく、そのまま通り過ぎてゆくであろう。そこでは「彼」などは存在せず、一個の匿名存在として、連続性さえ保つことなく、発言の度にその一部を成すことしかできはしない。
彼が匿名を破棄したとき……コテハンを用いた場合には事態は一変するが、それもまた好ましいものとはいえるわけではない。匿名空間において明白に個人であるということは、平坦な大地に聳え起つ塔となるに等しい。従って彼のもとには、その求心力に寄せられる多くの信者と、そして恐らくはそれより多くのアンチを集めることであろう。まるでそれはピラニアの如きである。匿名空間においては、共同して魅力を生み出す協会である反面、常にその魅力を奪い合う戦場でもある。塔は堅固な要塞となるだろうが、しかし取り残された大多数にとってそれは大いなる脅威となるのだ。
……以下を欠く