コミュニケーション手段が発達した結果、コミュニケーションにも格差が生じている。
SNS等々の先端コミュニケーションの調査によって浮き彫りになるのは、社交的な人間はより幅広く濃密なコミュニケーションを得る反面、非コミュは何の恩恵も得られないばかりか、様々な手段に取り残される結果として、今まで以上にコミュニケーションの場から取り残されていくということであった。
騙されてはいけない。多くのコミュニケーション手段は社交的な人間のためのものである。それらの手段の発達によって利益を得るのは、社交的な人間であって、非コミュはむしろ損害を蒙るのだ。
しかし……非コミュにとっての安らぎの場もまた存在する。2ちゃんねるがそれであり、恐らくは、増田もまたそういったものであろう。個々人では殆ど魅力を持たず、従って自らコミュニティを形成する力のない非コミュがコミュニケーションを得るためには、もはや個人という枠組みを捨て去るしかない。匿名空間において全人が、或いは、少なくとも多くの人々が共同して生み出すバザールの人格において、非コミュは初めて魅力を得る。虹裏(としあき)や喪板(('A`))が、参加者にとって極めて魅力的なのは、仮想的に統一されたデフォルトネームにおいて、こうした力がより顕著に働くためであろう。こうした板が明文化されているいないにかかわらず、内部的に極めて厳格なルールのもとで動いており、外部に対し極めて閉鎖的になりがちなのも、またこうした理由から説明可能である。
なおまた、こうした匿名空間は時として外部者にとっても非常に魅力的なものと写るが、しかし彼が十全なコミュニケーションを甘受していればいるほどに、彼がそこで得る利得はより少ないものと見えるであろう。というのも、彼にとって、自己を埋没させる匿名でのコミュニケーションは、いわばエヴリン・ハバル――全て空虚――であるし、彼は恐らく、自らがコミュニケーションをとっているというよりは、むしろ街頭で選挙演説をしているような、そんな絶望的な感覚に囚われるであろう。何人かは彼の言葉を聞くそぶりはするが、しかし誰も「彼」そのものには注目しない。しかも大多数は、彼には一片の関心も示すことなく、そのまま通り過ぎてゆくであろう。そこでは「彼」などは存在せず、一個の匿名存在として、連続性さえ保つことなく、発言の度にその一部を成すことしかできはしない。
彼が匿名を破棄したとき……コテハンを用いた場合には事態は一変するが、それもまた好ましいものとはいえるわけではない。匿名空間において明白に個人であるということは、平坦な大地に聳え起つ塔となるに等しい。従って彼のもとには、その求心力に寄せられる多くの信者と、そして恐らくはそれより多くのアンチを集めることであろう。まるでそれはピラニアの如きである。匿名空間においては、共同して魅力を生み出す協会である反面、常にその魅力を奪い合う戦場でもある。塔は堅固な要塞となるだろうが、しかし取り残された大多数にとってそれは大いなる脅威となるのだ。
……以下を欠く
コミュ能力はパーソナリティを表現するための道具。コミュ能力だけ高くパーソナリティが薄い人間は空虚感を与える 絶好例…しなさりんど パーソナリティの表現能力が低くても、時間...
これは小学校における英語教育にも例えられそうだ コミュニケーション能力=英語の習得 パーソナリティ=言語生活者としての日本人 いくら英語で話せるようになっても、母語教育...
ちょっと例から離れるけど、コミュ能力の獲得がパーソナリティの希薄さを露呈してしまう、ということ。 その通りなんだけどさ、だからこそパーソナリティーの希薄さをなんとかし...
うーん、英語教育でいうコミュニケーション能力とは、つまり英語という言語記号を使ってコミュニケーションできるということ。 「自らのパーソナリティの低さを自覚できるコミュ能...