はてなキーワード: 慢性骨髄性白血病とは
私の母が死んだ。47歳の誕生日を迎えてまもない冬の日。半年の闘病生活の末のことだった。
病名は、慢性骨髄性白血病。
以下、情報が正確でないことにご留意下さい。伝聞や、うろ覚えで書いているものが含まれています。
私は一人暮らしをしているから、その時の状況は電話越しに伝えられた範囲でしかしらないことが多い。以前から頻繁に連絡は取っていたが、病気がわかって以来、母の体調が許せば毎日電話していた。
大学が夏休みになるまで二月余りを残していたと思う。どうも母が白血病らしい、と言うことを聞かされた。私が真っ先にしたのがググって見ること。いかんせん、TVでよく見る難病の一つと言うイメージしかない。調べていくと、ここ10年くらいで新しい薬が開発されて、治療に関わる環境はだいぶ良くなっているらしい。良くはわからないが、いまでは直る病気になったようなのだ。
私は安心した。鵜呑みにするのはいけないと思いながらも、信用できる情報だったからだ。
投薬治療で症状が落ち着けば、通院しながら普通に生活できるらしい。母は電話越しに、「仕事を辞めて暇になったからお菓子を作ってるんだ。夏休みになったら作ってあげる。」と普段とあまり変わらぬ調子で言っていた。
この頃は病名を聞かされたショックから立ち直ってた時期だったと思う。
事態が変わったのは夏休みに入る前のことだ。母が入院した。グリベックという薬が効かなくなっていたらしい。後で聞いた話だが、急遽病院に行き、検査を受けてる間にも体調が急変していたそうだ。これはマズイと言うことで、入院することになった。
入院してからしばらくは、薬で抑えていた病気の症状が現れていて、かなり苦しんだらしい。母の体調を鑑みて、長時間の電話は避けざるを得なかった。この時期の全てはあとから聞いた話しになっている。
薬は何種類かあって、人によっては合う合わないがあるし、量の匙加減も難しい。過剰に生産される白血球が下がりすぎてもだめだし、抑えられなくてもダメなのだ。必然的に、治療は長期間に渡るものになる。
ともあれ、主治医の尽力の下、母は体調が安定するようになった。
夏休みに入って、私は実家に戻った。蛇足ながら以下に私の生活パターンを記す。
朝十時ぎりぎりに起きてバイトに行き、午後3時くらいにはバイトから上がりがてら買い物をして、風呂を浴びた後、母を見舞い、午後6時前後に家に帰って夕食の仕度をする。父が母の見舞いにいくなら付いていって、大体12時には寝る。バイトがなければ家事をしながら、できるだけ母のところで過ごす。
実家は田舎にあるので、私は去年取ったばかりの免許片手に車の運転に習熟することになった。病院までは大体車で20分。
家事は一人暮らしである程度の経験はあるものの、家一つ切り盛りするのは容易ではない。私は祖母と分担してやっていたが、母には到底及ばないことを痛感する。
母は夏の間は比較的安定していたように思う。血液中の成分を分析した数値は上下していて、分からないなりに私たちは不安になったものだったが。熱は高めであったが合併症を起こすことも無く、起きて歩いたり出来ていて母は体力を必要以上に落とさないようにするなど、治療について前向きだった。お医者さんが重い病気にも関わらずしゃんとしていてこちらが勇気付けられる、という風なことを言っていたほどであった。
ただ、病気に対する抵抗力は徐々に失われていっていたようで、秋が近くなったあたりでアイソレーター(空気清浄機の親玉)が個室に入った。母はこれを自分の病状が悪化した証だと見たのか酷く気にしていて、アイソレーターがはやく取れないかとこぼしていた。他にも、入浴は洗浄して誰も入らないうちにしたり、食事に制限がついたりした。納豆などの菌がついてるものは冗談抜きで命に関わるようだ。
治療方針についてだが、これは二転三転していた。母の検査の結果次第であるからだ。当初は入院は短期間のことであるとの話しだった。ついで、退院が見えてこなくなり、移植も検討しなければいけなくなり。最終的には移植するしかないとのことになった。移植についても、中々方針は決まらなかった。少なくとも素人目にはそう見えた。が、この場合は主治医の熱心さの表れでもあった。聞いたところによると他の病院の血液内科(要は専門)の先生とも協議を重ねていたとのことであった。それに母は遺伝子が特殊だったらしい。骨髄バンクでドナーを探すのも難しいだろうと言う話しを聞いた。私か兄かの造血肝細胞を用いての半合致移植に踏み切ることも有力な選択肢の一つだった。最終的には、主治医が見つけてきた、完全に一致する臍帯血を用いて移植することになった。
リスクは大きいがそれしかない、との決断だった。母はまだ比較的若くて体力があることも後押ししていた。
施設の問題で、最初に入院した病院では、移植の前処置に必要な放射線照射が行えないらしいので、他の病院に転院することになった。
夏休みの最後に、父と共に、その病院で転院に必要な手続きと、担当して頂く医者との顔つなぎにいった。穏やかな、経験豊富な先生であった。どうも、前の主治医も今回も医者には恵まれたようだ。
私としては、付き添っていたいのは山々だったのだが、母たっての希望で、大学に戻ることになった。
それからは、移植前の前処置に入る直前までは連絡をとっていた。以降は父を通してたまに状況を確認するに留めた。
移植後2週間くらいたった、12月のある日。
移植がうまくいっているかが、おおよそ見えてくるだろうから、私は土日を利用して母を見舞った。
愕然とした。準無菌室に居た母は、長く伸ばしていた髪をそり落とし、管に繋がれて、一瞬誰だかわからないほど人相が変わっていた。見るからに弱弱しく、その辛さは如何ほどのものか、本人にしかわからない辛さだろう。つい先日風邪を引いたくらいで弱音を吐いていた私は自分を恥じた。
なんと言っていいものか、躊躇ううちに1時間が過ぎて、母は疲れてしまったように見えたので、その日はそれだけにしてアパートに帰った。後から聞けば、私は何もできなかったけれど大層喜んでくれたようだ。
クリスマスには冬休みになるから、その時また会おうね。そう約束した。
クリスマスを目前に控えた日。
父から何通もメールが来ていた。文面は全部、すぐに連絡を下さい。
普段は強いて何も考えず、その日も暢気にバイトに精をだしていた私は、すぐに思い至った。まずいことが起こった。そして、そこで考えるのをやめて、すぐに飛び出す準備に取り掛かった。久しぶりの全力疾走。兄が近くまで迎えにきているらしい。気ばかりが急いて、結局アパートの外で30分ばかり兄を待って立っていた。
病院についたら、丁度父と医者が話しているところだった。呼吸器をはずすのはどの時期にするか。そう漏れ聞こえた。私は泣き崩れてしまった。
母の術後の経過は良好だった。白血球の数値も戻ってきていた。ただ、血小板は立ち上がるのは遅くなるもので、どこかから出血すれば手の施しようが無い。その危険性については何度も言われていた、と父は語った。
母の脳内では出血が起こっていた。最も起こって欲しくなかった事態になってしまったらしい。
病院で、個室を一つあけてくれて、母はICUからそこに移された。自発呼吸はしていない。瞳孔も開いてしまっている。脈拍と体温、それに呼吸器の音だけが母の生きている証だった。それでも母は生きていたのだ!
泣き疲れて、寝て起きれば、母は目を覚ましているのではないか。最近眠れてなかったらしいから、2,3日寝てるだけなんじゃないか。そんなことばかり考えた。
その日から、3,4日ほどだろうか。父、兄、私の3人で交代で寝ずの番を立てて母に付き添った。呼吸器のリズムを厭いながらも、安心させられもする、最も堪えた日々だった。最も、精神とは面白いもので、1ガロンも涙を流せば人間立ち直る方向に向かえるらしい。水を飲んだそばから涙に変えれば少しは気が晴れたものだった。
深夜1時、父と兄と私が見守る中で、母は息を引き取った。
繰り返し、情報が正確ではなく、うろ覚え、伝聞が入っていることにご留意下さい。