男性というだけで弱者性を剥奪するな、男性にも弱者がいるのを認めろというのが弱者男性論の根幹だけどさ
その弱者性ってのが大概は経済的困窮か人間関係的困窮しか語られてないよね
でもさ、心も身体も男性・異性愛者・健常者・生まれも育ちも国籍も日本・経済的困窮も人間関係的困窮もない人だって、やっぱり弱者ってのはいると思うんだよね
たとえば幼少期の体験でトラウマを負っているとか、あるいは刃物が苦手でどうしても料理ができないとかね
そういう人達が、「心も身体も男性・異性愛者・健常者・生まれも育ちも国籍も日本・経済的困窮も人間関係的困窮もない人だからって弱者性を剥奪するな。心も身体も男性・異性愛者・健常者・生まれも育ちも国籍も日本・経済的困窮も人間関係的困窮もない人にも弱者はいることを認めろ!」と言ってきたら、弱者男性論はそれをも弱者男性論に取り込むことを認める?
そうでないとしたら、どこで線引きをするのか、ってちょっと疑問に思うんだよ。