2014-03-10

「反応」としてのストレス

理屈は「反応」としてのストレスには勝てない。

何か物事にチャレンジしようとした。その結果他人から否定的な言動を浴びせられた。その時俺は深く落ち込んだ自分を奮い立たせる為に本やネットの記事から下記のような考え方を用いた。

すべての 他人から好かれるなんて無理に決まってる。何か行動したり主張したりすれば足を引っ張ったり出る杭を叩こうとする奴は一定割合でいるもの自分の行動は他人の期待に答える為では無い、自分がやりたいことをする為だ。だからそんなのいちいち気にする必要無い。

といった具合に。理屈としては理解して納得した。

しかしどうも違う。俺は相当なビビり症で、まず他人が否定的な言動を俺に浴びせかけてくる事それ自体に対して、まず体が恐怖や不安の「反応」をしてしまうのだ。頭では「気にする必要は無い」と分かっていても、体の「反応」からは逃れられない。

例えて言うと、予防接種病気から身を守る為と分かっていても、やっぱり注射の痛み自体は感じてしまう。先端恐怖症ならば尚更。

身を守るという理屈理解していても、結局痛みは感じなければいけないのだ。

俺は悟った。結局、理屈は「反応」としてのストレスに打ち勝つ事は出来ない。

「反応」としてのストレスに打ち勝つには「経験」を積むしか無いのだ。

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