2013-07-22

人間性の奴隷悟り

人間性は満たされると満足してしまう。

漫画がたくさん溢れれば読んでしまうし、読んでる時間漫画に奪われる。

ゲームをすれば、ゲーム時間は奪われ、ゲームを楽しんでしまう。

生きる事が、こうやって、何かに奪われていくのは、まるで家畜のようだ。

これが、人間性だよ。 というのはわかるのだけど。

これによって、家畜になってしまわないか

何かに囲われてしまう、環境が作られてしまう。

これに従容とするのは、豚みたいだ。

杉原千畝は、自己犠牲にして、他者をすくった。

一人の命より、大多数の命の方が数的に大切だというのは言われれば当たり前だが、そこに自分を入れない論理を展開できるだろうか。

自身の思想において、助けないで生きる事より、助けて死ぬことの方がいいと判断しただけかもしれない。

だが、自分を数に入れない論理というのを認められるだろうか。

それは、宗教かもしれない。

自分がいないところで成立する、数学などのために、名声とかなしで、殉教できるだろうか?

それが、悟りではないか

自分を介さない思想、悟り



悟りにより、自分環境への順応を否定することができれば幸いではないか

環境を作られて満足するより、悟りによって、環境の外を肯定する。

宇宙を肯定する。

ここに、生きることが、人間ではないか

人間性の中に存在する小さな人間より、宇宙を肯定する大きな人間に、なりたい、というか、ありたい。

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