翠星のガルガンティア第6話 謝肉祭 山内重保のエロスまとめ - 玖足手帖-アニメ&創作-
お色気シーンが視聴者には見えづらかったという批判への反論が書かれていてなるほどと思った。
一般的なアニメのラッキースケベシーンは主人公の目を通して視聴者もそれを疑似体験することが前提とされたカメラワークになっている。
そこにあるのは主人公の目を通した視聴者へのサービスという意味が第一で、アニメは視聴者のものになっていると言える。
しかし今回のガルガンティアお色気シーンについては、視聴者へのサービスもありつつ、あくまでレドの体験に主軸を置いたつくりになっているところで賛否両論あるらしい。
最後のエイミーの踊りをレドの目線レベルで鑑賞させなかった部分とかで。
そこではアニメはあくまでもアニメの主人公のもので、視聴者とは一線が引かれているように見える。
でもそれが演出として視聴者に伝わればそれはそれで表現方法のひとつとして十分に成立している。それに気づく視聴者とそうでない視聴者がいるというだけで。
自分の思い通りにならなかったアニメを視聴者の都合で文句を言うのはお門違いの場合もあるということは頭の片隅にでもおいておく必要があると思う。
誰かそこらへんまとめてください。