2011-02-23

彼らは廃馬を撃つ

死ぬほど胸が痛いのだがこういう時はどうすればいいのか。向かい合って話せばもうぐしゃぐしゃになってしまうのはわかりきっている。わたしはあれから出来るだけ離れなければならないのだ。

一番良いのはもう永遠に会わず、存在自体をなかったことにすること。あれは存在しなかった。幸福な体験は存在しなかった。そうすればよい。幸福を知らなければ不幸もない。

彼の何かに触れているだけでわたしには深い滋味が与えられる。あのひとに比べたら、他の誰と会っていても味気のないボソボソとした食べ物を食べているようだ。すがたかたちや発言の一言すべてがわたしのこころを震わせる。

炎が燃えている。わたしはひどく傷ついている。

もし手放したくないのだったら、少しでも触れていたいのだったら、何も気にしない顔でいればいい。執着を限りなく捨てること。

それがわたしにできるだろうか?わたしとあの人が全く別の存在として、何も結びつけるものはないと認め、執着を捨てることができるだろうか。

できるかもしれないと思う。社交的な顔で、楽しく話すことができるだろうと思う。共通の友達の近況や、悪口なんかを、ものすごく楽しく話すことができると思う。

でも次の瞬間にはそんなことは不可能だと思う。わたしはきっと、何もかもかなぐり捨てて泣きじゃくってしまうだろう。わたしを受け入れて欲しいと、わたしを愛して欲しいとすがりついてしまうだろう。そしてあの人はそれを受け入れることができないだろう。

他の友人にしていることが、どうしてその人にだけは出来ないのだろうか。執着はなから生まれるのだろうか。

わたしの執着は、一人よがりなシンパシーとか、都合の良い解釈とか、きっとそんなガラクタだけで出来ている。向こうがそう思っていなかったら、不純で勝手な思い込みなんか単なるガラクタだ。

こんな時、誰か他のひとにすがりついて寝てもらったら気分が楽になるのかもしれない。あれはいい。その時だけでも愛されている気分になれる。でもわたしは良い娼婦はなれないと思う。廃馬は撃たれるものだと言うが、では悪い娼婦はどうなる?

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