叩かれたとは思うが根本敬は気にも留めずに作品を発表し続けていくと思う。
個人的にはドブスを守る会にはたとえ「嘲笑してる」と言う自覚があっても続けて欲しかった。
『神様の愛い奴』は本当に酷いよね。
あれは好きなんだけど表立って「大好き」ということをはばかられる作品だ。
本当は好きだから復讐したという可能性もあるんじゃないの。
ルールの問題かなあ。
社会的慣習まで含んでいるならまあそうだろうけど。
アンチ社畜はまず自分が雇われの身であって立場は常に下であるって現実と向きあうことから始めればいいんじゃないかなあ。
ボトムアップなんて言うけど、トップが裁量権を持っていれば常にトップダウン式にならざるを得ないし。革命がしたいならまず仕事辞めればいい(というかボトムアップなんてのは下克上や革命以外に適用できるのかねえ)
格差是正にしろ、その生活で満足できないから湧き上がるボトムアップ的主張なわけで。でも是正するのはトップだってこと、わかってるのかなあ。
Tweatを見る限り、守る会は自分たちが嘲笑しているのを自覚していたが、根本敬はその点は否定しているからな。
多分、「芸術でも差別は許されない」というスタンスじゃ、かれの行動はとめられない。
彼自身にそのつもりも無いだろうから。
もちろん、そうした低俗な遊びってのは一杯あるよね。
表に出ないだけで、「罰ゲーム」と称して、嫌われ者と親しくさせ双方の反応を楽しむ悪趣味な行為は腐るほどあるだろう。
大抵の場合は、自分たちの下劣さは省みることもなく、勘違いしてんじゃねぇよ的な嘲笑が行われる。
今回は、そうした類の行いを、なんら抽象化することなく、全世界に垂れ流したわけだ。
それも、行為を行われたほうが対抗手段が無い状態でね。
たまたま、本人たちの予想以上に問題が膨れ上がってこんなになってしまっているが、そうでなければ被害者の泣き寝入りだろう。
小杉太一郎(amamako)は行き過ぎた批判を批判しているが、正直意味がわからん。
問題になっていなかったら、あなたのように「ただの悪ふざけだろ」と思うような人間にはスルーされ、あれを楽しむような連中に消費されるだけだ。
彼らのごく少ないTweetからの類推だが、根本敬の言うアウトサイダー的なものに惹かれ、自分達が新たなアウトサイダー的価値観を作り出そうとしていたように思うが、それに完全に失敗したという印象を受ける。本人たち自体も「今は叩かれる」とは言っていたようだが。
例えばだが、既存映像のコラージュでもいいのでニートとかを「こんな天然ニートは保護されるべきだ」とやっていたらお笑いで済んだ可能性が高い。ただ、これだと彼らの言う「新しい価値観の創造」にはならんのだけどね。
超絶特別な要素がない社会はつまらない。さんざん楽しんでおいて今更何言ってんだ。要はお前が敗北しただけだろ。
ブラジャーのサイズに見られる、B75などの記号についてのお話しをしようじゃないか
このアルファベット部分は一般にカップ数と呼ばれ、トップバストとアンダーバストの差を表す
基本的に10cm差のAから始まり(AAやAAAなども存在はしているが)、2.5cm刻みでサイズが大きくなっていく
Dカップは17.5cm、Eカップは20cmほど、トップとアンダーに差があることになる
アンダーバストとは、おっぱいの下側、一番細い部分の外周。アルファベットの後ろについている数字がそれだ
そしてトップバストとは、おっぱいの頂点部分、一番出っ張っている部分の外周だ
たまにここら辺を混同したキャラ設定で、F100の巨乳ちゃんなどというキャラを見かけるが、
いくらDやEやFカップでも、アンダー100越えなど基本的にドラえもん体型であり、見目麗しい状態ではない
それどころか痩せた際、著しく目減りする可能性を考慮すべきである
C80とD75ではどちらのおっぱいが大きいか。答えは簡単だな。「どちらも同じ」だ
下着はアンダーサイズに応じて収容量が増える仕組みで、サイズをひとつプラスした場合、アンダーをひとつ下げると大体容量が釣り合う
一般的なおっぱいサイズをB75と定義した場合(私調べ)、それはA80、C70、D65なんかと容量的に同じなのだ
ではB75とB80ならどうか。もうわかるな? 正解はB80の方が大きい、だ
ただしアンダーバストが大きいということは、体型に違いがあるわけで、一概にどちらがよいおっぱいかということは言えん
ケビン・カーターの写真を思い出すがああいう分かりやすいメッセージ性のあるもんじゃないよなあドブスを守る会。
それでも作り手の明確な「これは芸術」という意図があって行われたものなら「アートです」と胸を張って世界に問えばいい。
そこでフルボッコにされたらケツをまくって逃げ出すのはどうしようもないな。何がしたかったんだお前らとしか言いようがない。
痴漢に遭遇したくない人に、男性が乗れない車両がありますよ、と環境を提示するのだから問題ない。
そこに乗らない人が痴漢を許容しているとかの理論は成立しないが、犯罪者の割合なんて、%で言っても整数にならんだろうから、仕方が無い。
今回の首都大生たちをリンチするのは、彼らと同じ穴の狢なのではないか - 見たり聞いたりしたこと
http://blog.livedoor.jp/taitiro/archives/1180884.html
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ここで「例え芸術でも云々」って意見があるんだが、それは「倫理の問題」で、倫理上NGであることは間違いないのだから、そもそも議論にならんだろ。
最高の映像技術と機材を使って撮影されたフィルムは、映像としての価値はあるだろうが、それが倫理的に許される映像かどうかは、映されている映像しだいだ。
技術的にすばらしいことと、それが倫理的に許されるかどうかは別物。
戦争の写真などがまさにそうした範疇のもので、目の前の子供を助けるかどうかという倫理的な問題とは別に、それが伝える現実には意味がある。
それが賞を取ろうが何をしようが常に批判は付き纏うし、また逆も然り。
目の前の子供を助けなかったから(倫理的に問題があるから)、写真に価値がなくなるわけではない。
今回の件について、そうした「芸術的な評価軸」でも、まったく駄目で話にならないという展開をしている人がいる。
彼らの「アートだ」とかいう戯言を痛烈に潰しているのだが、それを「芸術でも許されるべきではない」とか批判する意味がわからん。
誰を、何のために、狙撃してんだろ。
その批判が、「何を批判するものなのか」本当に聞いてみたい。
重ねて書くが、「芸術でも許されるべきではない」は倫理の問題で、倫理上では完全にNGなのは誰も異論は無いと思う。
いまさら、議論として話すことでもない。